世界人類が平和でありますように

神聖で繋がり合う人々

2024年2月24日(土) 動画による祈りの会の詳細な内容

240224-動画による祈りの会_由佳先生・里香先生

【由佳先生】

皆様、おはようございます。2月24日の動画による祈りの会にご参加くださいまして、まことにありがとうございます。本日は里香先生と一緒に、皆様と共にこうやってお祈りさせていただける機会をいただけることに心から感謝を申し上げます。前回、改めて我即神也・人類即神也・神聖復活の印が生まれた流れ、白光の歴史をお話させていただきましたが、私達は未来を共に常に創り続けています。

そしてその結果は、必ず未来になったときに振り返ってみると、本当にすべてがそうなっていたという道を歩ませていただいています。だからこそ、神々様と共に歩ませていただいている白光真宏会であるということを、前回の動画のお話の後、改めて感じさせていただきました。

昌美先生が、私達の意識を2025年というところにしっかりフォーカスさせてくださっているからこそ、今この一年間、2024年にできることがあり、それを最大限に行なっている少数精鋭隊がこの人類の中にいるのだということが、確実な神聖復活の時代の未来を創っているのだという確信を改めて思わせていただいています。

それが可能になるのも、こうやって皆様が集まってくださっての集合の祈りの力、そして「人類は神聖なのだ」という確信の意識を地上に降ろしてくださっているおかげだということを、本当に感じさせていただいており、一瞬一瞬、真剣に大切に皆様と共に祈ってゆきたいと思っております。

【里香先生】

皆様、おはようございます。本日もどうぞ、よろしくお願いいたします。由佳先生がおっしゃったように、先週は「人類即神也の視座」をしっかりと皆様の中に刻印していただき、私も(参加できませんでしたが)改めて一緒に、後でやらせていただきました。

私達の大切な働きのひとつは、自分の人生に起こる様々な現象、いろいろなものが現われてゆく中でも、それをプロセスとして観る(観察する)ところにあります。

しかも自分個人のものでない世界の様々な戦争や自然現象などに対しても、それぞれのプロセスを神聖の観点から見て、先の先の未来を見据えた働きをしています。

それはつまり、“霊主肉従”(の観点です)。「霊が真実で肉体側がその陰なのだから、私達は霊の側に立って神のみ心を降ろすのだ」と、世界平和の祈りや神聖復活の印をまず降ろし、霊を先に打ち出して、その器としての肉体の私達はそれに従ってゆくという生き方です。

そのように、私達は宇宙の法則に全く従った生き方をさせていただけているということで、こういう一回一回の機会というのは特別であると思いますし、本日も皆様のお祈りの力、感謝のお力をお借りして、この世界を平和に調えてゆきたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

<世界平和の祈り>

【由佳先生】

【里香先生】

ありがとうございました。それでは皆様、本日のメインプログラムに入ってまいります。本日は地球世界感謝行を皆様方と丁寧に、ゆっくりと一項目ずつお祈りを捧げて参ります。

地震も多いですし、自然災害も様々な場所で勃発しております。それも人類の一つの消えてゆく姿、浄めの働きの状態ではありますが、そうした状況が現われてくるからこそ、そこにまた新陳代謝した新たなる生命の働きが芽生えてくるともいえます。

私達の働き(の肝)は、消えてゆく姿が現われてくることに感謝しながら、それらを大難から小難へ、小難から無難へと、祈りの力で変えてゆくところにあります。これは、五井先生・昌美先生からいただいた大変に尊い教えであります。

これから皆様方と共に、地球世界感謝行を行なって参りますが、その前に本日は、老子講義の第六講『上善は水の若し』を読んでまいります。

水の役割、水というものがどのような姿であるか、その働き、その生命…、どのようにその働きを担ってくれているか…。それらを学びながら、水の存在に感謝して、水として現われている尊いそのお姿から、我々が学ばせていただく。

そういった意味で、五井先生を通して老子がおっしゃられている水というもの、その水に対しての説明、また“水のように振る舞う”ということがどのようなことかということを、そこに詳しく書かれてありますので、これをゆっくり読み上げさせていただき、その後、皆様方と共に地球世界への感謝のお祈りを捧げて参ります。では、どうぞよろしくお願いいたします。

【里香先生】

老子講義 第六講 『上善は水の若し……』

上善は水の若(ごと)し。水は善く万物を利して争わず。衆人の悪(にく)む所に処(お)る。故に道に近し。

上善というのは最上の善ということであります。その最上の姿は水の姿である、というのです。どうして水の姿が最上の善の姿かというと、水は善く万物の為になって、そして何ものとも争わないからである、というのです。

水が万物を利しているということは、一寸考えても判ります。この世の生物で水のおかげを蒙らないで生きていられるものはありません。生きるという根本的なことがそうであると共に、あらゆる機会に水は人をはじめ万物を利しているのです。

そのように万物を利しているばかりでなく、何ものとも争うことがないのでありまして、四角い器には四角く、丸い器には丸い姿となって、その場その場にすっかり和しているのであります。

しかも水は、常に高いところに止まっていることはせずに、低いところ低いところと、自らを一番低いところにおこうとしているのです。衆人の悪むところとは、人々の嫌がるところ、つまり低い地位ということです。そうした水の姿は、実に道に近い、神のみ心に近いというのであります。

そこで、そのような水の心で人間がこの世に処していったら、どのような行ないとなってゆくか、ということが、次の節に述べられているのです。

居は善く地。心は善く淵(えん)。与うるは善く仁。言(げん)は善く信。政(せい)は善く治(ち)。事は善く能。動くは善く時。夫(そ)れ惟(ただ)争わず。故に尤(とがめ)無し。

 居は善く地。というのは、その人がいる場所はすべて善くなってゆくような、そういう人でありたい。それは丁度、水が地をうるおすように、自然の姿のままで、何処にいても、如何なる地位にあっても、人々を善化してゆく人でありたい、という意味であります。心は善く淵。というのは、淵というのは深さとか永遠性とかを現わすためによく使われる言葉なのでありまして、心は深く澄み透っていて、永遠性を現わしているようでありたい、というのです。

与うるは善く仁。という仁には、日本的に云えば、無我の愛であり、寛容であり、慈しみであり、叡智の行であるというように、一つの仁という言葉の中に、あらゆる美徳を含めてあるのです。完全なる人格を表現するために、この仁という言葉が使われているのです。

ですから、そうした仁の心で人々に接したいものだ、というのが、この与うるは善く仁というわけです。

言は善く信。とは、言葉は虚言であってはならない、常に信用の置ける真実の言葉でなければいけない。あの人の言葉には嘘いつわりがない。あの人の言葉なら絶対大丈夫だといわれるような真のものであり、道に叶った言葉でなければいけない、というのです。

信ということばは、にんべんに言と書かれてありますように、人の言そのものをいうのです。人というのは、霊(ひ)の止まるところ、日(光)の止まるところという言葉で、神霊波動のそこに止まって働く者をいうのです。現在一般に人間といわれている者と真実の人といわれている者とは、同じことに使われていますが、実は厳密にいうと全く同じ者ではないのです。

人とは、神霊波動そのものが、そのまま働いている姿につけられた言葉であり、人間とは、神霊波動(光)と業想念波動(迷)との混合された者につけられた名称なのであります。ですから、人間は次第に浄められて真実の人となってゆくわけです。

そこで釈尊などは、天人、人間、阿修羅(あしゅら)などという人の境界にそれぞれの名称をつけているのであります。

そこで信という言葉は、真実の人の言葉、言とは声に出る言葉だけではなく、想念そのものの波動(ひびき)も言(ことば)というのです。言葉とは、言(ことば)の響きの枝葉に及んでひびいている時につかわれるのです。

そうした言(ことば)は、信という文字になって、信という文字が、そのまま、神霊波動そのもののひびきとして、真実の人の言葉(ことば)という意味をもつのです。そういうわけで信という言葉は実に大事な言葉となるのです。老子はこの信をますます善いもの、善い言葉として、人々に伝えなければならぬと云っているのであります。

政は善く治(ち)。政(まつりごと)は善く治めなければならないということは当然なことですが、善く治めるということは、老子在世の昔から、今日に至るまで、実にむずかしいことなのでありまして、後には名政治家と称えられている人でも、その人の在職中には、後に挙がった名声程に、その時代の人に賞め称えられたわけではないようです。

よく治まる政(まつりごと)を行うためには、為政者に私心が少しでもあってはならないのだし、常に天の声、神のみ心と一つになって行わなければならないのです。老子の云う、道に沿った行為のできる人でないと、真実の政治は行えないのです。

現在の世界中の政治家にこのことを当てはめてみて、当てはまる人が果たして何人あるでありましょうか。私心を全く去って、神のみ心そのものの政治を行なっていれば、その国は平和になり、栄えてゆくにきまっているのですが、今日のように世界情勢が複雑になっていますと、よほどの偉人であっても、世界各国の各種の想念波動に妨げられて、神のみ心のままの政治を行うことは容易なことではないのです。

個人が無我になることはまだ易しい。個人が神のみ心そのままに動くことも、精進(しょうじん)次第ででき得ることです。しかし、神のみ心のままを政治に実現せしめることのむずかしさは、他の何事にも比べられないむずかしさであろうと、私には思われます。

この善き政治の出現は、もう少し先の将来にゆずることに致して置きましょう。老子の言葉を実行に移すためには、まだまだ世界中がその時期になっていないのです。

事は善く能。とは、事を為すのには、その能力を善く生かして、無駄なことをしてはいけない。善く能力を生かして事に処すれば、誰でもその人を大事にしてくれる、というのです。本当に、自分で自慢たらたら自己宣伝をしないでも、その人が善く能力を生かして働いていれば、自然とその人は重く用いられるのであります。要するに常にその道、その道の実力を養って置くことが肝要である、と老子は云いたいのです。

動くは善く時。如何にこま鼠のように動いていても、その働きが時に叶わなければ、無駄働きになってしまいます。どんな有能な人でも、時を知ってその能力を現わさなければ、かえって身を危うくすることさえあるのです。

世界平和の祈りにしても、これが、法然親鸞時代だの、戦国時代に唱えたとしても、一向に効果がないばかりではなく、その主唱者は恐らく馬鹿者扱いをされるか、邪魔者扱いされるかして、殺されかねません。

人と時と処とが三相応しないと、物事は完成されないのです。古い昔から聖者賢者が沢山出ておりながら、人類が根本的には救われていない、ということは人があっても時と処とが、合致しないので、根本的な救われが成就しなかったわけです。

ところが、現代こそ、地球人類の運命は最後の土壇場に来ておりまして、絶体絶命の立場に追い込まれてきているのです。滅びるか、全(まった)き救われの道に入るかの、両極に起たされているのです。

ですから、今こそ、人と時と処の三相応の姿が必ず成就するのです。何故なれば神は大愛です。地球人類を最後の苦しみのまま滅ぼし去るわけはありません。今日こそ真実の救われを地球人類は体得しなければ生きられなくなっているのです。

では、最後の、夫(そ)れ惟(ただ)争わず。故に尤(とがめ)無し。ですが、水は争わない、だからとがめがないのだ、と同じように、人も争う想いが無くなって、真に平和の心になれば、すべての善き行為がその心から生まれ出でて、とがめも誤りも出てはこない、と結んでいるのです。

実際に争う想いの少しでもある人は、真の平和論者とはいえないし、老子のこの章のような生き方はとてもでき得ないわけです。自己を完全な人格にする最初の出発であり、最後の心でもあるのが、平和なる心であるのです。

平和な心が根底にあって、そこからすべての善徳が生まれ出でるのであって、平和の心が根底にないと、一つの善徳を積んでも、どこかでその善徳を崩してしまう、不徳をしてしまうものなのです。

ですから人は何にも先(さき)んじて平和な心を養わなければならないし、争う想いを無くしてしまわねばならないのです。

自分の行為が正しくて、相手の行為が悪いのだから、自分が怒るのは当然だというような場合がずいぶんありますが、私のようにその人その人の過去世からの想念所業の判るものからみれば、その時には、確かにその人の方が正しく、相手方が100%悪いとしても、過去世からのお互いのやり取りを通算してみれば、正しいと思っている方にも、悪いところがたくさんあったので、相手方がその人に悪く当たってくる理由も随分とあるわけなのです。

個人同士のやりとりも、国家や民族同士の争いなどでも、その場その時だけのものではなく、過去世の歴史的な諸事情の下に、今日の争いも生まれてくるのであって、現在正しいからといって、現在正しい方が全面的に正しく、現在悪い方が全面的に悪いとはいえないのです。

また、主義や主張にしても、その主義主張が表面的には国を汚し、人類を乱すように思われることでも、実は国や人類の業想念を綺麗にするための大掃除による、種々のほこりが立っている姿かも知れないのです。

人類が神の子の真実の姿を現すためには、どうしても、浄めが必要なので、人類の大浄化作用のために、現在は、各種の面妖な思想や行動が起っているのであります。

そうした間違った思想や行動をみますと、正しい心の人々は、つい腹立たしくなるのでありましょうが、そこで腹を立てたり、争いの想いを起こしたりしたら、その人自身も、神のみ心から離れていることになります。そこで私はすべての想念を先(ま)ず、世界平和の祈りの中に入れて、そこから自分の想念行為を頂き直して、生活してゆきなさい、と人々にすすめているのであります。大事な大事な平和の心を養う最大の方法は、やはり世界平和の祈りを根底にして生きる生活方法よりないのです。老子の一見難しそうな教えも、平和の祈りの中から行じる習慣をつけますと、意外な程易しく実行できるようになるのです。

【里香先生】

はい、ありがとうございました。少し長い文章でしたが、全部聞いていただいて、本当によかったと思います。私自身、水に対してこういう見方をしたことがあまりなかったのですが、やはり水というものは、高い所から低いところに流れてゆく。それが私の中ですごくジーンと響いてきました。

「自分は知っている」とか、「自分はすごい」とか、どんな能力やどんな英知や、どんなすごい人であっても、そこにとどまってはならない。常に常に、あらゆる場所に水のように、どんな場所でも自由自在に把われることなく動いてゆける、働いてゆける。○その水の姿がなんと愛おしいことか。それも自我なく、自分を無くして、把われも無くし手放して、自由自在にどんな場所にでも入ってゆけるというところが、本当に素晴らしい姿だなあというふうに思いました。そのように今回は、水に対してものすごく感謝の気持ちを深く持ちました。由佳先生はいかがでしたか?

【由佳先生】

はい、お話する前にパワポの部分でいくつか誤字脱字が目立ってしまったことを改めておわび申し上げます。英語の方々のためにと思って、ちょっとバタバタとつくってしまい、日本語の方には読みにくかったり、漢字が間違っていたりなど、見苦しい部分があったことをお詫び申し上げます。

それで、今日も里香先生が選んでくださった老子講義の一節をゆっくりと聞かせていただいて思ったことは、「今日、ご参加の皆様は、どの部分に心が惹かれたのかな?」ということで、私はそこにすごく興味があります。

全体的に私が今受け取っているのは、「世界人類が平和でありますように」というお祈りの本当の深さ、その凄さについてです。その深さ、すべてを包括してすべてが叶うというか、“人間”が“人(霊止)”となってゆき、人(霊止)となった時には、本当の平和が各方面から現われてくる…。そのための行為であり、それがこの祈りのすごいところです。

そのように、「世界人類が平和でありますように」という祈りの深さを、老子講義を読み、老子の文章に対する五井先生の解説を読ませていただいて、改めて「有り難いなあ」という気持ちにあふれています。

また、里香先生がおっしゃってくださったように、水の働き…、“低い所へ低い所へと流れてゆく”という本来の自然の摂理と、私達三次元の地球に生きる意識というのは、(※善悪優劣の思慮分別の中で)より高く高くと、高みを目指さなければという想いの癖に浸かってしまうが故に、霊止(人)としての(本来の)自分を忘れてしまうのだというところに気付きがありました。

あともう一つ、私がハッとなった箇所は、「人と時と処(ところ)の三つが揃ったところに、神の大愛の大成就を起こす」と言われた時に、“人”というのはもう、白光真宏会を通して一万人以上の“神人”が育った。“時”というのは、昌美先生がおっしゃってくださっている“2025年”がもうすぐそこに現われている。“処”というのは“富士聖地”なんだというのを、昌美先生のメッセージから、また改めて今この老子講義を読ませていただいて、本当に今こそがその時なんだという部分をしっかり掴んで、“世界平和の祈り”と“神聖復活”というこの二つこそが神の大愛そのものであり、「誰しもが本当に、一人として抜け落ちることはなく、全てを包括して神の大愛を表現できる大きな大きな救いなのだなあ」ということを、今日は深く受け止めさせていただきました。里香先生、ありがとうございました。

ということで、今日いただいたメッセージ、皆様もそれぞれに受け取られた部分があると思うんですが、そこを心に持ちながら、地球世界感謝行へ移って参ります。

「世界人類が平和でありますように」「上善水の若し」、そして“霊(ひ)が止まる”という私達の中にある素晴らしい神々様の大愛の響きに感謝を込めて、今日は地球世界感謝行をして参ります。○では、地球世界感謝行を始めてまいります。皆様、よろしくお願いいたします。やり方はスライドで地球世界感謝行の一部を読ませていただきます。そして心を込めて読んだ後に、その自然に対して皆様と共に印を組んでまいります。ではよろしくお願いいたします。

<地球世界感謝行>

【由佳先生・里香先生】

【里香先生】

はい、皆様、ありがとうございました。では最後に、皆様方と神聖復活の印をゆっくり七回組んでまいりますので、よろしくお願いいたします。一回組んだ毎に、少し静かな時間を置いてまいります。

<神聖復活の印>

【里香先生】

【由佳先生】

はい。ありがとうございました。皆様、今日も本当に素敵な会をありがとうございました。前回から「世界人類が平和でありますように」という響き、すべてに対する愛が、内から本当に外に全体に巡るような、そんな時間を過ごさせていただきました。里香先生、いかがでしょうか?

【里香先生】

老子講義のお話を朗読させていただいて、何度も何度も声に出して読めば読むほど、自分の中の自我とか小我とか、そういうものがどんどんそれで消していただいている。それで最後にこうやって皆様方と世界平和の祈りという大きな大愛、我々の大元の響きそのものが真剣に祈ることによって、その真我の我というものが表に出て、最後に神聖復活の印をゆっくり組んでいるその静けさの中に、自分の中にそれを思うすべての想いを溶かしてゆくというこの時間が、私にとっても、世界人類にとっても、皆様方にとっても、きっといい時間になったのではないかと、本当に皆様方のご参加、その祈りに毎回感謝しております。本当にありがとうございました。

【由佳先生】

今日は終わる前にもう一つだけ告知をさせてください。これは『動画による祈りの会』ですが、『ウェブによる祈りの会』というのを、皆様どれぐらいの方がご存じかなと思っているのですけど、ちょっと名前がややこしいのですが、『ウェブによる祈りの会』は、一人一人の悩み・苦しみ悲しみなど、この地球上に生きてれば、誰しもが何かしらの悲しみや苦しみがあって当然だと思っております。

そんな中で、私達は消えてゆく姿という教え、「すべては現われれば消えてゆく」というのが根本にありますが、「どんなに祈っても消えない」とか、「消えてゆかない」「消せない」という、そこで悩まれる方々もいらっしゃるということを受け止めて、『ウェブによる祈りの会』は、その本来消えてゆくものを本当にしっかりと消してゆくためのプログラムになっております。

これまでは、その『ウェブによる祈りの会』の特色として、今まで自分が自分の中に秘めていた悲しみや苦しみ、悩みというのを自分だけで祈って消してゆくという内容でした。

そうした悲しみや苦しみ、悩みを、安心安全な場所で言葉に発し、それを伝えて消してゆく。みんなで祈り合って消してゆくというのが、これまでの『ウェブによる祈りの会』のやり方でした。

でも、続けてゆく中で、いろいろと私達にも見えているところがありまして、そもそも消えてゆく姿について語ることや、改めて学び直すこと、また神聖復活が出た後ゆえの消えてゆく姿と神聖というものの両輪といいますか、そういうような考え方から、まず講座というか、特に真妃先生が力を込めてわかりやすくお話してくださるんですが、人によってはまだ消し合うワークをするのではなく、その部分のお話を聴きたい、知りたい、触れたいという方もいらっしゃるかもしれないというスタッフのお声もありまして、これからの『ウェブによる祈りの会』は二部構成にさせていただこうということを話しております。

その第一部は、私達三人から特に真妃先生から消えてゆく姿の原理や、なぜ消えてゆかないのか、どうすれば消してゆけるのかといったお話的な要素を第一部とさせていただこうと思っております。

ですから、改めて「消えてゆく姿について聴きたい」「聴き直したい」という方がいらっしゃいましたら、そういう方々もご参加いただけるように二部構成にしましたので、第一部の部分にご参加いただけたらと思っております。

それでその中でも、「やはり自分はどうしても消せない。自分ひとりでは消えてゆく姿にできない」とお考えの方は、ぜひ第二部にもご参加ください。そこでは、自分の悩みを人に伝えたり、それを安心・安全な場所でみんなで祈り合う時間を第二部にしています。

しかし人によっては、そこでもまだ人前で言いたくない、言えない悩みがあるというのもすごく理解ができるのです。みんなそれぞれに抱えているものや、安心・安全と思えるところは違うので、「参加してみようかな。でも、みんなの前で話すとか、そのワークが嫌だわ」という方も会員の皆様にはいらっしゃるかもしれないということで、そのような方向けに、第二部にもう一つお部屋を用意して、そこではひたすら世界平和の祈りを一緒に静かに祈るお部屋として用意しております。

それにより、たくさんの方にご参加いただきやすいプログラムになるようにいろいろ改善しながら、『ウェブによる祈りの会』も発展させておりますので、改めて「消えてゆく姿の講座を聞いてみたいわ」という方々も、ぜひ第一部のみご参加いただきたいですし、「これまで悩みがあったけれど、ちょっとそこに参加するのには抵抗がある。ちょっとハードルが高い。」という方々にも、第二部で部屋を選択できるようなプログラム設計にしてみましたので、もしも心のどこかで、「あ、自分はまだ消えてないな」と思うところがあったり、「消えてゆく姿に対する違うアプローチで、何かできることがあるならやってみたいわ」という方々がいらっしゃいましたら、是非ともご参加いただけたらと思います。

次回の開催日は、3月17日日曜日の午前10時からになります。申し込みはすごく簡単で、いつもの白光真宏会のウェブサイトで、その中の「ニュース&トピックス」をクリックしてもらうと、一番最初に出てきますので、これをクリックしていただけると、すぐに参加申し込みができます。

参加費は3000円となっていますが、一回参加していただくと、『ミニ講座』にも参加できるという特典が付いていまして、一回限りで終わるものではありません。

消えてゆく姿というのは、常にそういうことに向き合ってゆくリズムが必要だということで、実はその対象の方々、そこに参加された方々が、一・二ヶ月に一回集まって30分なんですが、お祈りしたり印を一緒に組んだり、あるいは本館の祈りの時間とリンクしてお祈りをする場などを設けておりますので、まだご参加いただいていない方は、ぜひ3月17日にご参加ください。

長く宣伝しましたが、里香先生の方からも、何かそれに対して一言お願いします。

【里香先生】

皆様、是非是非この機会を使っていただければと、私達みんな心から思っております。やはり本当に尊い働き、世界平和の祈りを常に祈ってくださっている方々、そして、神聖復活の印を一生懸命組んでおられる方々は、消えてゆく姿は必ず消えるのです。後もう一歩、確信を持つことができれば、必ず消えてゆきます。

ただその途中で、私自身も体験があるから分かりますが、「ホントに消えてゆくのだろうか?」とか「なんでまたこんな想いが出てきてしまうんだろうか?」とか思って自分を責めたり、「ああ、祈りは効かないんだ」と不信に思ったりする段階があります。

でもそこを超えてしまえば、必ずすべての人々には(花が咲き、実が結ぶ)タイミングがあるわけです。そのタイミングというものについては、先ほどの五井先生のお話にも書いてありました。時と人と処が皆揃うのもタイミングです。それぞれのタイミングがあるわけです。

それを私達は本当に確信をしており、皆様方の消えてゆく姿を通し、あのような場を通し、私達も本当にそのお役割に深く感謝しながら、共に歩んでゆこうと思っておりますので、是非、「今苦しいなあ」と思っておられる方はご参加ください。

また以前は、「みんなの前で悩みを言わなければいけないのか」と思い、参加を躊躇されていた方におかれましても、そのような言葉を口に出す必要のない場も設けておりますし、想いというものは五井先生に伝わっていますし、守護の神霊はすべてもう全部つつみ込んでくださっておられますので、その場にご参加くださり、共に響きを放つことができれば、よくなるタイミングは必ず訪れますので、是非皆様、『ウェブによる祈りの会』をご活用ください。よろしくお願いいたします。

【由佳先生】

はい。ということで皆様、本日の『動画による祈りの会』にご参加くださり、本当にありがとうございました。次回はまた2週間後、3月9日土曜日にお会いできるのを楽しみにいたしております。

【由佳先生・里香先生】

皆様、ありがとうございました。失礼します。

以上