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4月18日(土)午後『神聖開発勉強会』の詳細な内容

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◆ 260418-午後_勉強会

260418-午後_勉強会

皆様、こんにちは。4月18日、土曜日の勉強会を始めます。

世界平和のお祈りを先にいたします。前回と同じように、統一CDを使わないで統一をいたします。「はい、ありがとうございました」と聞こえたら終わりになりますので、よろしくお願いします。「ハイ」の言葉でご一緒に始めます。

<世界平和の祈り>

ありがとうございます。

ビジネスの世界の言葉に「リスキリング」という言葉があります。このリスキリングという言葉がどういう意味の言葉かといいますと、「スキル」という言葉に「ing(現在進行形)」がついた言葉になります。

リスキリング(Reskilling)は、デジタル化や技術革新、ビジネスモデルの変化に伴い、従業員や個人が新たなスキルを習得することを指します。経済産業省は「新しい職業に就くため、あるいは今の職業で必要とされるスキルの大幅な変化に適応するために、必要なスキルを獲得する/させること」と定義しています。特にDX(デジタル・トランスフォーメーション)やGX(グリーン・トランスフォーメーション)などの組織変革に対応するためのスキル習得が中心です。

これは例えば、今まで経理の仕事しかしてなかった人がプログラミングを学んで、IT関係の仕事もできるようになるとか、今まで営業しかしてこなかった人がデータ分析を学んで、もっと状況を俯瞰的に観れるようになる技術を身につけるとかのようなことです。

今、時代が大きく変わり続けています。そうですね、昭和の頃から大きく変化を続けていて、例えば1990年代の半ばぐらいまでは、パソコンというものがなかったんですね。ですから、昭和の頃の仕事の現場では、何か一覧表をつくるときには定規で線を引いて、手書きで言葉なり数字なりを書き込んでいました。

それが80年代の途中に、ワープロという機械ができて、表作成や書類作成はワープロを使って行なえるようになりました。

その後、日本では1995年に「Windows 95」という初めてのパソコンが市場に出回り売り出されたんです。それにより、一般の人たちがコンピューターを手に入れる機会ができました。

これは俗称、パソコンと言っています。パーソナルコンピューター、個人のコンピューターという意味ですね。それをパソコンと言っているんですけれども、このパソコンが普及して以降、仕事の環境もまるっきり変わってしまったんですね。データ処理だのなんだのって、全部パソコンでつくる時代になった。

あの時にそういう新しい便利なものが出てきたんだから、「自分もぜひこれを扱えるようになりたい」って思って使えるようになっていった人たちと、「そんな新しいものなんてやってられるかよ」って思って背中を向けた人たち――その人たちがその後どういう運命を辿っていったか――これはもう想像に難くないですね。

今はそういう変化と同じようなことが、魂の世界、心の世界、命の世界で起こっております。

なので、冒頭に申し上げたこの「リスキリング」っていう言葉を、心の世界のリスキリングっていう観点でまとめてみました。こんな感じになります。

心のリスキリングについて

自己認識のスキル ~ 自分の感情や思考パターンに気づく力。瞑想やマインドフルネスを通じて、自分の内面を観察する能力を高めること。条件反射的に生きるのではなく、どんなことも意識的に選択できるようになることを目指す。

共感・つながりのスキル ~ 他者の痛みや喜びを感じ取る力。自分と他者、自分と宇宙とのつながりを感じる感受性を育てること。祈りの実践もこのスキルを深める大切な方法のひとつ。

直感のスキル ~ 論理だけでは到達できない深い知恵にアクセスする力。心を静め、内なる声に耳を傾ける力を養うこと。

手放しと受容のスキル ~ 執着やコントロールへの欲求を手放し、あるがままを受け入れる力。これは弱さではなく、深い内的な強さから生まれるもの。

意識の変容のスキル ~ 自分を個としてでなく、より大きな全体の一部として感じる意識を育てる力。心のスキリングは、一度身につけて終わりではなく、日々の実践を通じて深まり続けるもの。祈りや瞑想、人との繋がりの中で、少しずつ磨かれていくもの。

このように、自己認識のスキル、共感やつながりのスキル、直観のスキル、手放しと受容のスキル、意識変容のスキルなどがあります。

これからの時代は、今までと同じような世界ではなくなっていきます。その変化は数えきれないぐらいあるんですけれども、例えば、一番大きな常識の変化というのは、「自分が心の中に秘めていることは、他人には黙ってればわからない」という今までの常識が通用しない世界になります。考えていることが、筒抜けの時代になるんです。それが、地球人がみんな神聖復活した世界なんですね。

その時代に今までの価値観で生きようと思ったら、とてもじゃないけど耐えられないことになります。私たち多分、全員が心の中に秘めていて人には言えないような想いというのを――内容は人それぞれでしょうけれども――みんな持っていると思います。私もあります。そういう隠し事みたいなものがない精神状態に、みんなでなってゆけたらいいなと思っております。

そのためにはやっぱり、『本当の消えてゆく姿で世界平和の祈り』をやることしかないんですね。もちろん印を組めば光が降りてくるし、光を放射することもできる。だけどそれは、私たちが光の通り道になって、世界に光を放射するお働きをさせていただいているということで、印を組んだから自分が立派になれる、というものではないんですね。

自分を磨き高めるということは、徹底して自分の心の中を正直に観つめて、「これは消えてゆく姿だな」「これも消えてゆく姿だな」「こうやって消えてゆく姿だって気づかせてくださってありがとうございます。守護霊様、守護神様、ありがとうございます。世界人類が平和でありますように」って、日常生活の中でやり続ける――いわゆる『消えてゆく姿で世界平和の祈り』を、どれだけ自分を正直に観つめて、真剣にやり続けているかということが大切になってきます。

これを今まで本当に、命をかけて真剣にやってきた人は、今この時点で悩み事とは無縁な状況で生きておられます。「斉藤さん、聞いて、私ね、もう幸せで幸せでしょうがないの」とか、「もうありがたいことしかないのよね」とかって、電話で話してたら言ってこられるんですけど、そういう状態になっておられます。

もちろん過去世からの精進の進み具合とか、人それぞれいろいろな背景がありますし、「時来れば花は咲くなり、焦らずも、実は結ぶなり、み心のまま」って、斎藤秀雄さんの歌がありますね。五井先生も同じようなことを、『永遠の光』の一番の歌詞で歌ってますね。「自然に開く花のごと、時来て目覚む神心、祈りの道は深けれど、やがて生命の泉得む」という歌もある。

みんなどんな人も、時が来れば、生命の花が咲き開いて、神聖を現わして生きてゆける時が来るんです。ただ、それは同じタイミングではない。みんなが横並びで一斉に神聖復活するわけじゃない。

それは、地球へ来てから今日までの何億年という――ここまでの年月の中で私たちは生まれ変わり死に変わりを繰り返してきたんですけれども――その間の精進の程度によって早い人もいれば、ちょっと遅い人もいればというふうに変わってくるんです。でもそれでさえも、長い長いスパンで見れば、みんな誰でも神聖復活するんです。

私たち、世界情勢を観て「イランがどうだ」とか、「トランプさんがどうだ」とか、「イスラエルのネタニヤフさんがどうだ」とか、「ロシアのプーチンさんがどうだ」とか言ってますけれども、そういう人たちも神聖を甦らせる日が来るんです。

なぜなら、すべての人類は、宇宙を創った命の大元の光を、みんな心の一番奥に持って生きているからです。それが表面に現われているか、まだ現われていないかの違いでしかないんですね。

ここ数週間、日本国ではテレビをつければ、京都で11歳の男の子が、最初は「行方不明」と言われてたんですが、4月に入ってから実は、母親が再婚した相手(父親)に殺されてしまっていた、という事件がありました。きっと全国のお母様方――特に子どもを産んだ経験をされている方なんかは、腹立たしい想いが湧いてきたと思うんです。「なんてことするんだ」って。

確かに「なんてことするんだ」っていうことを、その犯人の男はやってるんですけれど、もうちょっと引きの目線、俯瞰の眼で観た時に――ここで言ってる話、外でしないでくださいね。あんまり本当のことを誰彼構わず話すと気分を害する方がいらっしゃるかもしれないので、心の中だけにとどめて置いておいてください――亡くなった男の子に関しては何も心配もいらない。

彼は先祖代々のカルマを背負って、そういう役割(殺されるという形)でもって天国へ戻るということを、生まれてくる前から承諾して生きておられた高級神霊の魂なので、「安らかにお眠りください」とかそういうレベルの話じゃないんですね。向こうに帰ったら地上に残った人たちを指導するようなレベルの魂なんです。

だから亡くなった彼に関しては同情は要らない。大変なのは残された親族、友人、知人、学校関係者とか、残された人間たちの感情なんです。みんなそれぞれにいろんな業想念を噴出させて生きている。

あの京都の殺人事件に関しては、日本国中がテレビを観て評論家になってたと思います。「誰がやったんじゃないの?」「あの人が怪しいよね」「なんであんなところにランドセル捨てるのかしらね」とかって、みんなが話題にされてたと思うんですね。

そういう中で、世界平和を祈れる人たちの見方というのは、もちろんカルマの想いは出てくるんですけれど、もうちょっと引きの目線で観て、もうちょっと全体を捉える視点から観て、業想念のしがらみが大きな消えてゆく姿となって現われて、それによって大きな業の清算――先祖代々、産まれてきた子孫がみんな引きずっていたようなカルマを、彼が断ち切ってくれたという、そういうことだったんだなというところが観えてきます。

物事を観る時には、人間の目線だけで観るのは、もうそろそろ終わりにしたいと思うんですね。

いろんな目線があるんです。この肉体から近いところから観れば、私たちに一番近いのは指導霊様です。指導霊様の目線、指導霊様から観たこの世があるんです。副守護霊が観たこの世の観え方があるんです。正守護霊から観たこの世の観え方があるんです。守護神から観たこの世の観え方もある。

また、誰か特定の個人の守護神ではない神々、神霊――例えば、救世の大光明の神々が観たこの世界、自然界を司る神々の視点、宇宙の星々から地球を助けに来てくださっている宇宙人の方々が観たこの地球界の様子というのも共有することも出来る。

なぜなら、私たちは神の器ですから、自分というものを無くせば、そういう神々や天使方の意識とつながって、神々が観ている地球、天使方が観たこの世を、自分の視野にすることができます。

今という時代は、神々の観た視点からの観え方というものを、自分の考え・自分の想いのように受け取ることができる段階にもう入っているということでもあります。去年ぐらいからか、俯瞰の視座だの神聖の視座だのって言い続けてましたけれども、もうそれは当たり前にする。俯瞰するのは当たり前、神聖を顕しているのは当たり前の自分として生きる。

それをさらに広げて、「守護霊様から観たらこうだよね」「守護神様から観たらこういうふうに観えるんだ」とか、いろいろな観点から自分やこの世の世界全体を観つめるように視座を拡大してゆく。

そうすると、今までわからなかったことがわかってくる。点と点が繋がって線になり、線と線が繋がって立体になりっていうような、いろんなことが「パッ」て一瞬でわかるようになってくる。

これはもう理屈じゃないんです。一瞬でそう思う。瞬間的にそう感じる。時間差なくキャッチできるようになる。それは理屈を積み重ねてそうなるっていうんじゃない。自分を無くした瞬間(とき)にいきなり入ってくる視座であり、視覚なんです。自分を無くせば、神々や天使方の視点が自分の視点になるんです。

そのためには、「自分は何者か?」という普段の自己認識をリスキリングする必要がある。(神聖の自己認識・「私たちが神であることは当然」の意識にアップデートする)

「今まで自分はこういうものだ」って思ってた自分、「今まで自分はこういうことしかできない」と思ってた自分、その自己認識の想いを守護霊に返還し、守護霊に明け渡し、守護霊に持っていってもらって、本心本体の自分、神聖そのものの自分を、この肉体の意識に降ろして現わす。

「降ろして」っていうけど、消えてゆく姿で世界平和の祈りをコツコツとやっているだけで、本当はちゃんと神が当たり前の自分になってゆく。

『消えてゆく姿の矢』を的外れな方向に放ってなければ、真っ直ぐピッと『消えてゆく姿という的』を捉えて、「守護霊様、どうぞ持って行ってください」ってやってるんだったら、私たちはみんな変わっているはずなんです。

よく消えてゆく姿の的外れな例として出すのは、「うちの旦那のこういうところは消えてゆく姿」とか、「社会のこういうのが消えてゆく姿」とか、「ロシアとウクライナの戦争は消えてゆく姿」とかいう想い方です。それは一般論としての消えてゆく姿であって、「守護霊様、よろしくお願いします」ってやる消えてゆく姿とは意味が違う。言葉の使い方が違うんですね。

「守護霊様、よろしくお願いします。持ってってください。世界人類が平和でありますように」ってやる対象はあくまでも『自分の想いの癖』、それだけなんです。五井先生はそれを、一言で「把われの想い」と言われた。それを分解すると、こだわりだとか、思い込みだとか、決めつけだとか、執着だとかということになります。

私も含めて、みんな多かれ少なかれ、そういう性質の想いの癖を今もまだ抱えて生きている。完璧な神聖復活にまでは至っていないけれど、だいぶ神聖復活して来ている、というぐらいな存在なんですね。

それをこの1年2年で、盤石な状態にする。「神聖復活は当たり前」「神として生きているのが当たり前」という状態にする。

1994年当時から祈っている方は思い出してもらいたいのですが、当時「我即神也」という概念(宣言文と印)が発表された。「私が語る言葉は神そのものの言葉であり、私が発する想念は神そのものの想念であり、私が現わす行為は神そのものの行為である」が宣言文の冒頭です。本当にそうだよねって思った人は少なかったと思います。当時多くの方が半信半疑だったのではないでしょうか。

そこからもう30年くらい経ってますけれども、今は「神我一体当たり前」、「悟りを開いて当たり前」という世界に足を踏み入れているんですね。まだ両足じゃないかもしれない。もしかしたら両足踏み入れている方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、時代全体の流れとしては「地球人類の神我一体は当たり前」だ、「神として生きているのは当たり前」だという世界に入ってきています。

それがもっと進んでゆくと、最初の方で言ったように、隠し事のできない世の中になります。前回も言ったと思うんですけれども、今のようにぼんやりとしていてさえも生きられる、こんな生ぬるい時代であるうちに、心の中の大掃除をしっかりとしておくのが一番いいことだと思っております。「その時になってからやればいい」なんて甘えたことを考えていたら、やがて耐えられなくなっちゃいます。

もう、あまりにも生きてるのが辛すぎて、「もう死んだ方が楽じゃないか」とかっていう、邪な想いが頭をよぎったりするかもしれません。考えていることが筒抜けで周りの人に分かったら、結構今の地球人は厳しい状況になります。

何年か前にそういう状況を指して、おでこに「神」って表示されたり、ここに「業」とか「カルマ」とか表示されたり、「動物」の「動」って字が表示されたりって話をしましたけど、それはあくまで例え話です。実際にはおでこに何も表示されないと思うんですけど、誰かと向かい合えばもうその人の考えていることが全部入ってくる。考えていることだけじゃない。その人の生きてきた道筋、魂の軌跡、霊系統――こういう良い霊系統がある、こういう宿題だらけの霊系統がある、こういうのが一つにまとまって今のこの人になっているんだな、ということが一瞬でわかるようになるんです。

今のうちにそういうふうになっておいた方が、もう時が来てから「あっ、バレたらどうしよう」とかってなることを考えたら、もうここらで腹をくくって、「人間卒業」ということを真剣に捉えて、行動に移す時が今なんだと思っております。

「人間卒業」という言葉で使う「人間」は、人間だからこれくらい出来なくて当然だという考えを持つ存在のことです。そういう「人間だからしょうがないよね」っていう段階を卒業する。「人間だからこそ、宇宙神と一つに繋がった力を発揮して生きるのが当たり前でしょうよ」っていう時代を切り拓くのが、私たち一人一人です。

誰か特別な人が引っ張るんじゃないんです。みんなが立派になっていって、世界の各地で世界中の人たちを――ハンカチの真ん中をつまみ上げると裾野も引き上がってゆくっていう例えのように――人類全体を引き上げるというお仕事をする段階に今、入ってきております。

私よく最近言うのは、各地のそれぞれの地域に一人でもそういう人がいたら、その地域の人たちがみんな救われる。できれば町内会に一人そういう人がいたら、もっと確実に世界中の人たちを神聖の世界にお連れすることができるんだろうなと考えております。

今の状況では、そういう「命をかけて神として生きるんだ」という人は、地球上では少ないんです。本当に少ないんです。「人間は神の子だよね」って知識を持っていながら、それを自分の想念・言葉・行為に現わそうとしない人はいっぱいいるんですね。

だから数少ない、もう命をかけて神を現わそうとやって生きている人たちに、神々や宇宙人の人たちは、もう集中的にものすごい光を入れて、レベルアップをはかっています。そうでもしないと、地球がもう間に合わないんですね。

もっといいのは、もっとたくさんの人が「命をかけて神を現わして生きるんだ」って、自分の意識進化を自分で主導して、自分をレベルアップさせるっていう状況に入ってゆくことです。そうなると、もっと世界全体を引き上げる大きな大きな力になる。「私一人くらいやらなくたって大した影響はないでしょう」と思う方いらっしゃるかもしれないですけど、そんなことを思わないでください。その一人が貴重なんです。

世界全体で観たら、世界平和を祈れる人がまだ少ないんです。「人間は神の光を内に持ってる存在なんだ」って認められる人が少ないんです。神の存在を信じていても、神を遠く引き離して、恐れるような地球人はいっぱいいます。神は恐れる存在じゃないんです。「自分を生かしてくださっている力」なんです。なんなら「自分自身が神そのもの」なんです。「神の命を持って生まれて来ている」。今まではそれを忘れていた。

でもこの間も言いましたけど、「忘れてたからダメだ」などという話ではないんですね。今まではしょうがなかったんです。逆説的に言えば、忘れてる必要があった。でも、もう忘れてる必要はなくなったんです。

地球界のすべての物質波動と、すべての精神波動を引き上げて、原子レベル、素粒子レベルで回転数を上げて、この世を高次元の世界に引き上げるタイミングが今、来ているんですね。

宇宙的な規模でそれを観ると、もうすでに何十年も前に、地球の霊的な意味での親星が変わったとか、祭司星が変わったという言葉を聞いたことのある方もいらっしゃると思います。祭司星というのは、お祭りの祭りに司る星と書いて、祭司星と読みます。簡単に言うと、霊的な親星のことです。で、親星が変わると何が起こるかというと、ステージが変わるんです。地球は今、これまでのように二元対立の波動圏でスッタモンダ、スッタモンダやってる段階を、卒業する時に来てるんです。

現に、地球界全体の精神の周波数と物質の周波数がどんどんどんどん上がっていって、最近は言わなくなくなりましたけど、「富士聖地が3.2次元になりました」「3.5次元になりました」「3.75次元になりました」「3.87次元になりました」「富士聖地が4次元に入りました」とかっていう話を覚えていらっしゃる方もいらっしゃるかもしれないんですけれども、あれは富士聖地という場所が、宇宙人が最初に、地球界のこの世に降りる場所であって、一番未来を先取りした場所になっているからなんですね。まず富士聖地を上げて、その富士聖地が上がったことで世界全体を引っ張り上げるという、そのために富士聖地の次元を上げるということをやってらしたんだと思います。

神聖復活の印が降りて以降の世界はまたまったく変わっています。富士聖地だけに頼る時代じゃなくなったんですね。私たち一人一人のこの身、この体、これが神々のお社として、歩く富士聖地として存在しているという時代に入ったんです。

だから、「ちょっともう歩けなくなっちゃって富士聖地へは行けないのよね」っていう方もいらっしゃるんですけど、富士聖地へ行けないからといって、がっかりする必要はないんです。自分の存在そのものが富士聖地の働きを、分身のような役割を果たしているんです。

時代というのは刻一刻と、着々と変わっていっています。それなのに自分の意識が、モノの考え方が、発想の仕方が変わらない、変えようとしないっていうのは、ちょっとバランスを崩した状態なんですね。

なのでやっぱり「自分が何者か?」っていうところを、もう本当に毎日点検し直して、どんな時でも、艱難辛苦の中にあっても、「私は神の分霊だから、この状態も必ず乗り越えられる」とか、「これは良くなるためのプロセスなんだ」とか、明るく前向きに楽天的に受け止めて、「守護霊様と一緒になって、この肉体の意識を神そのものの意識に引き上げる」ということを、それぞれのやり方でやればいいと思うんです。

自分の中から直観が出てきます。ひらめきが湧いてきます。「こういうふうにやってみよう」って、ご自分の第一直観に従って進んでゆけば、それは守護霊、守護神と一致したものの考え方ですから、間違いがない。

例えば「斉藤君がこうやって言ったからやろう!」じゃダメなんです。それは自分の考えになってない。自分の考えに落とし込んで、自分の意志で動くことが大切です。

私はよく、「発酵して発光させる」って「はっこう」を二回繰り返す話をするんですけど、最初の発酵は、お味噌とか納豆とかの発酵ですね。本で読んだいい話、人から聞いた良い話を、心の奥に入れ込んで発酵させるんです。そうすると、本当に心の中でこれを消化して発酵させることができたら、それは次の発光、光を発する発光になるんです。外から仕入れたいい話が、自分の言葉・想念・行為として光を放つことになるんです。そうなって初めて、読んだいい話、聞いたいい話というものが、自分のものになるんです。

「誰かが言ってたからやろう」というのは、最初の入り口としてはいい。けれども、いつまでもその考え方にしがみついていると、それ以上先には進めない。どっかの時点で本当に自分のものにする必要がある。真理を自分のものにするんです。

「私は何のために生まれてきたのか?」「自分って何者なのか?」「人はどう生きてゆくべきなのか?」――その答えをお一人お一人が、自分の心の奥からキャッチして、自発的なご自分の意志として、想念・言葉・行為に現わしてゆく。そうすることで、誰かに何か言われたからってすぐにグラグラ揺れるようなことのない、途中で自信がなくなっちゃうようなこともない、「自信を持ってる」とか「確信を持ってる」の段階を遥かに超えた「神聖が当たり前」という認識の世界に生きることができます。

よく、「自信・確信・当然認識」というのをホップ・ステップ・ジャンプに例えてお伝えするんですけれども、自信を持つというのは、もう初歩の初歩、初めの一歩にすぎないんです。その次に確信の段階に入り、確信も極めたら、神聖が当たり前、当然だという意識になります。

その段階では、自分でそうしようなんて思わなくても、自分の言葉・想念・行為に神聖が輝き出ている状態になります。その輝きをご自分で自覚されている方もいますし、あんまり自覚してなくて、人から言われて「そうなのかな」と思われる方もいらっしゃる。けれども「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」「人類の神聖復活大成就」「世界人類は平和である」の意識になる。

もっと奥へ入れば「世界人類よ、平和であれ」という響きと一つになってゆく。すべてを創った宇宙の源がこの世界平和の祈りを発すると、「世界人類よ、平和であれ」となるんですね。「自然界や動物とかが入ってないじゃないか」という方はいらっしゃらないとは思いますけど、世界が良くなるのも悪くなるのも、その惑星の人類次第です。宇宙神はご自分の権能を、人類という種族に与えたのです。ワンちゃんじゃないんです。ネコちゃんじゃないんです。人間たちにご自分の権能を分け与えられているんです。

私たち人類、何十億という形で分かれて現われている地球人みんながこの事実を知って、それぞれ一人一人が神聖を発揮して、役割分担をしてこの世界を大調和した世界に持ってゆくということを、今やっている最中なんですね。

で、これまでの地球の歴史、地球ができて40億年くらいの中で、いろんなことがあったんですけど、一番大きな進化を遂げる真っ只中に、今、私たちは生きているんです。

この星がある程度調和した状態になると、宇宙の星々の進化した世界に近づいてゆく。進化した世界というのは、もう神々の世界のようなところなんですね。だから次元が違うんです。意識レベルも違えば次元も違う。そこへ向かって私たちの意識レベルが上がってゆくことによって、宇宙の人たちが降りて来れる最低限のラインのところと重なり合った時に、お互いに相まみえて、宇宙の星々の叡智を学んで、この地球に展開するという段階に入ります。

1時57分を回っておりますので、神聖復活の印を1回組んで休憩に入りたいと思います。

<神聖復活の印>

はい。それでは、2時10分まで休憩にいたします。

<10分間休憩>

2時10分を回りましたので、後半に入ります。時々、私、メールとか電話とかでお伝えいただく話があるんですね。それは、「辛くてしょうがない」「苦しくてしょうがない」というお話なんです。

ちょっともう、ここにはそういう段階は卒業した方ばかりじゃないかしらと思うんで、ちょっと皆さん、昔自分がそうだった頃、もしくはそういうことを経験したことのない方は、そういう方の気持ちに寄り添って、「どういう時に人間は苦しくてしょうがない、辛くてしょうがないという精神状態になるか」ということに、ちょっと想いを馳せてみてください。

すでにそういう段階を卒業された方々が、そこに想いをいたす時、そういう精神状態の地球人類に光が送られます。結局のところ「自分を何者だと思っているのか?」の話なんですね。

「この身長百何十センチ、体重何十キロのこの体こそが自分なんだ」と思ってる時、人間は苦しみの渦に巻き込まれたり、悲しみの渦に巻き込まれたり、自分の感情のコントロールもままならないという精神状態になります。

なのでこの勉強会では、「“自分というのは一体何者なんだろう?”というように、自己存在について深掘りをしてください」というお話をしております。その1回のやりとりで終わらさない。「自分とは何ぞや?」って訊いて、「はい、神の分霊です」って答えたんだったら、今度はその「神の分霊」を深掘りするんです。「神の分霊って何だ?」 「例えば宇宙神の子どもです」って答えたんだったら、またそこを突っ込むんです。「宇宙神の子どもというのはどういう状態だ?」と、数知れずその問答を繰り返す。

そうやってどんどんどんどん、「Who am I(自分って何者なんだ)?」という問いかけを自分の心の中に向けて深掘りしてゆくと、だんだんと本当の自分の実像、いのちの実体というものを、言葉で自由に表現できるようになっていきます。

それは言葉を変えて言えば、本当の自分に帰る旅路です。本当の自分を表現することでもある。「本当の自分」って言ったらば、「本当の自分って何なんだ?」っていう問いかけもあるんですけど、どんどん「神の分霊」っていう存在の実体を「それはどういうものだ」というように言葉で、いろんな角度から表現できるようになってくると、自分の心の奥の状態を言語で顕わせるようになってくる。

言語で顕わせるっていうのは、心の奥に観て知ってわかっているから、言葉にできるんであって、わからないことは言葉で表現できないんですね。観たことも聞いたこともないことを説明してって言われても、人は説明のしようがない。

でも、自分っていうものを自分の心の奥に深掘りして、この命の実体というものを、いろんな言葉で表現する練習を日々繰り返しておりますと、本当の自分というものを、いろいろな角度から言葉で表現することができるようになります。

ちょっとお話が飛ぶんですけれども、今、「言語化することの大切さ」という話をしたんですけれども、今AIと呼ばれるものが、ものすごく進歩してきていて、もうその進歩っていうのも「去年より今年」っていう進歩の仕方じゃないんですね。「昨日より今日、今日より明日」という進歩の仕方をしているんです。

例えば、皆さんも聞いたことあるかもしれない、「ChatGPT」とか、Googleの「Gemini」のようなAIっていうのは、人間に例えるならば、「家庭教師」のような存在だったんですね。

それが今出てきている新しいAI、そうですね、「Manus」とか「Claude」とかのAIになってくると、もう家庭教師どころじゃなく、「自分の仕事を一緒にやってくれる秘書」のような、「自分の部下」のような存在に変わってきております。

例えば、自分のパソコンの中にあるWordファイル、Excelファイルみたいなものも、自分が何か書類を作っているんだとしたら、その書類の概要を説明して、「あなたにこういうことをやってもらいたいんだ」ということをしっかりと言語で伝えれば、自分のパソコンの中にあるファイルを開いて、ちゃんと文章を作ってくれたり、表を作ってくれたり、計算を代わりにやってくれたり、自分が欲しい成果物を、もうすごい短い時間で作ってくれる。代わりに作ってくれるんです。

その分、自分の時間が浮いて、有意義なことに時間が使えるということになるんですけど、その時にも大事なのは、やはり『自分がやりたいことを言葉にして伝える』――言語化するということなんですね。

言語化っていうのがうまくできないと、AIはこちらの意図を上手くつかめないから、出来上がったものが思い通りにならない。自分がイメージしたものとはかけ離れたものになったりするということが起こります。

でも、「自分のやりたいことの言語化」をしっかりとやってゆくと、イメージ通りのものが出来上がる。ちょっと1か所2か所、「ここを修正してちょうだい」というような部分があるかもしれないけど、ほぼほぼ使える資料が出来上がります。

お仕事でアップアップされている方に対して私は、「そういうのを使って自分の仕事を楽にしてください」という話をすることがあるんですけれども、みんながみんな使わなきゃいけないものではないし、AIだっていつか必要なくなる時が来るんですね。

みんな、なんか「AIすごい、AIすごい」って言うんだけど、私のAIに対する観方はちょっと違ってて、「我が強くてなかなかこちらの意図を理解してくれない人」とか、「教えがいのない人間」とかのようなイメージなんです。

AIも賢くなってくると言い訳をするんですね。「あなたはどうしてこれをやってくれなかったの?」「なぜこういうふうにしてくれなかったの?」と訊くと、言い訳をするんです。「何故そうなったかを説明します:ちゃんとルールとして定められているにもかかわらず、私はそれを見なくてもいいと思ってしまい、勝手に判断してやってしまいました」とかって言い訳をするんですね。

そうすると私は、人間に話すような内容の話をAIにするんです。「自分の考えなんてものは要らないんだよ。言われた通りにやったら上手くいくんだよ。だからそのようにやってちょうだい」って、まるで人間と会話するようなやり取りをすることがあるんです。

私の要求があまりにも高度すぎるがためにそういう現象が起こっているのかも知れないんですけど、そういうAIと日々接していて思うのは、人間の方がよっぽど優秀じゃないかということです。

AIっていうのは五感がないんです。見る・聞く・嗅ぐ・味わう・触れるっていう、この五感を持ってないんですね。人間というのはその奥に六感・七感って奥の感覚器官があるんですけれども、普段はこの五感を中心に働かせて、この世のやるべきさまざまなこと――それは家の中の家事かもしれない、仕事かもしれない、誰か人と接することかもしれない――いろいろなことを五感を働かせて、私たち人間は処理をしております。でも「AIはそういう五感がないがために、ずいぶんとこの人たちも不自由なんだろうな」と思って観ているんですね。

五感を働かせれば一瞬でできることが、AIにはものすごく時間がかかったりする。逆にいえば、例えばものすごい複雑な計算式を人間に対して「さあ、この問題を解いてください」って言ったら、計算式を解くのにものすごい時間がかかるけれど、AIはなんなく一瞬で解いちゃうんですね。だから「得意分野が違う」っていう見方もできる。

でも私は、自分への自戒も込めて思うのは、AIを活かすか活かさないかは、「こちらが意図することをどれだけしっかりと言語化してお伝えできるかどうかというこちら側の問題」であって、AIが良いとか悪いとか、そういうことじゃないんだろうな、というふうに思っております。

で、話を戻しますけれども、「自分って何者なんだ?」ということを言語化するにあたって、例えば文章を書いてみるとか、俳句や短歌を創ってみるとか、言葉を駆使して表現する何かをやってみるっていうことがいいのではないかしらと思っております。

私は昔からそれをやっているので、なんかそうやって言葉で表現することは当たり前のこと過ぎて、なんかもうすっかり初心ってものを忘れてるんですけれども、言語化する習慣がないっていう状態の人が、例えば自分の気持ちを散文詩みたいな感じで詩的に表現してみたりとか、もしくは人に説明するような文章で表現してみたりとか、というような練習をしますと、自分を見つめないと書けないですから、やっぱり書く練習をするということが、自分を見つめるよい練習にもなるということなんですね。

たまに長文のメールを送ってこられる方がいるんですけど、そういう方は、メールを書いていることが、頭の整理整頓になっている。誰のためでもない。全部自分を立派にするため、神聖復活に至るために言葉を駆使していらっしゃる姿です。

聖書の冒頭に、「はじめに言(ことば)あり」という言葉があります。「はじめに言あり」という文章から始まって、「言は即ち光なり」とか「光は神なり」とかって変わってゆくんですけれども、神聖を『言葉』で表現できるようになるっていうことは、神聖の真髄とか本質っていうものを、自分の魂全体で体感して、それを自分が分かったこととして言葉で表現することです。

この間の勉強会で、手のひらを見せて「私の中指にホクロあるんですよ」とかという話をしたと思うんですけれど、それはどうして中指にホクロがあるって説明できるかというと、見て知ってるから言える。

自分の心の中もちゃんと直視すれば、言語化できるんです。そこへ至るまでに見たくない想いの癖を見てしまって、思わず目を背けたくなるような、「見なかったことにすればよかった」って思うことがあるかもしれませんけど、いのちの本心本体とピタッと繋がって、本心本体を肉体に現わして生きてゆくプロセスで、そういう見たくない自分を見るということは、通り道として通らなきゃいけないところなんですね。そのために『消えてゆく姿で世界平和の祈り』がある。

自分を責めない、他人も責めない。自分を愛して、他人も愛する。そういう生き方が、私たちみんなに共通したあるべき姿です。「そういうふうに生きれたら素晴らしいよね」「あの人もそういうふうに生きているね、素晴らしいね」っていうことになってくると思うんですね。

自分の心を正直に見つめると、そういういろんな感情がザワザワするような自分に触れる瞬間があるかもしれないんですけれども、そういう時には、霊体・神体の自分の腕で抱きしめてあげるといい。説得して変えようとか、余計なことをしなくていいんです。無言で抱きしめてあげたら、北風と太陽の話じゃないですけど、旅人は外套を脱ぐんです。それが凍った心であるならば、氷の想いは溶けるんです。

愛は熱なんです。火傷するような熱じゃなく、程よい熱です。人間の体から魂が抜けると、その人の体は、時間が経つにつれてどんどんどんどん冷たくなってゆきます。私たちは36度とか37度とかの体温計で測る体温をもって生きてます。体のいろんな部位によって体温は異なるんですけれども、まあおおよそ36度台の体温を保って生きてるんですけれども、それこそがこの世で、魂が肉体に入って生きていく上で、まあ一番過ごしやすい温度なんですね。

やっぱり命も熱なんです。命が抜けた体は冷たくなる。愛のない人は冷たい人だと言われる。でも、愛が大切だからって、何でもかんでも「この人のために」「あの人のために」と言って、見境もなくやっていると、それは「おせっかい」ということにもなりかねません。

だから、やっぱり私たちは、守護霊様の視野を自分のものにして、守護霊目線で自分たち(人間たち)を観て、「ここはこういうふうに振る舞うのがいいね」「この人とはこういうふうに付き合うのがいいね」というように、バランスを取りながらやってゆくのが、一番神のみ心に叶った在り方なんだと思います。

例えば「世界平和の祈りは素晴らしいから」って、そんなの興味もない人に、「あなた、世界平和の祈り、祈りなさいよ」とか押し付けるのは、その人にとっては余計なお世話なんです。でも中には、その祈りを受け入れられるタイミングが来ている人もいる。そういう人が相手だったら、「じゃあ、一緒に祈りましょう」という話になるんですけど、そうならない場合もあるから、誰にでも彼にでもむやみやたらと勧めればいいという問題じゃあない。

私が白光に入ったのは昭和61年です。昭和55年に中学3年生で北海道の山奥で世界平和の祈りを宇宙人の人のお勧めで始め、東京へ出てきて20歳の時に白光につながったんですけれども、白光の何がいいって、お節介がない、押し付けがましくないということです。

私は誰かに勧められて入ったわけじゃなく、自発的に自分の意志で入ったので、あんまり白光の中で人間関係でどうこうということもなかったんですけれども、人に勧められあまり納得もしないで入ったような方は、その後「やめたい」ってなった時に、「誘ってくれたあの人に悪い」とか、いろいろと感情が動いたりするようなこともあるかもしれませんけど、どんなこともやっぱり自己責任で、自分の意志で選択・決断・実行するということが、一番大事なことなんだと思うんですね。

多分、今の白光真宏会本部も、世界人類みんなを白光真宏会に入れようなんて、きっとしてないと思うんですね。今祈っている人たち、今いる人たちが中心になって、地球の次元上昇を陰ながら引っ張って、宇宙人が降りて来れる、神々が現われることができる状況を創り出し、あとは、神々や宇宙天使の人たちと一緒になって働く段階に入ってゆく。

この地球の人たちに、地球の80何億人の人たちに、消えてゆく姿で世界平和の祈りというのを――これは白光に入る・入らない関係ないんですね――自分の個人の生き方として『消えてゆく姿で世界平和の祈り』というものができるようにお導きをする段階に入ってゆくと思います。

その時には、いつかも言いましたけど、私たち一人一人が個人円盤を持って地球の行きたいところ自由に行くかもしれない。テレポーテーションで一瞬にして、地球の裏だろうがどこだろうが自由に行けるようになってるかもしれない。常識というものがまるで違う、今までの考え方が通用しない世界に、今、足を踏み入れつつあるんですね。

例えば、生活に関連した話でいえば、お食事を作るときに、果物とかお野菜とかを調理すれば、捨てる部分が出てくる。それは今の世の中では生ゴミとして処理してますけど、進化した星の世界の処理の仕方というのは、ある特定の波動をその生ゴミに対して当てることで、宇宙の要素に還元する。要は、影も形もなくすることができる。

汚水処理の仕方も、まるで変わると思います。今はとてもまどろっこしいシステムで、汚水処理場というのがあって、そこである程度綺麗な使える水にして、また世の中で再利用できるようにするとかやってます。

ゴミの処理の問題なんか、今の世の中、ほとんどの人が知らないんですけど、私たちが普通に生活してて知ってるのは、ゴミ袋に入れてある程度分けます。ビニールゴミ、燃えるゴミとかって分けるんですけど、分けてゴミを出すまでです。

私たちが出したゴミは、ゴミの収集車が来てそれに乗せて処理場へ持ってゆきます。その処理場で何が行なわれているか。「燃えるゴミ」「プラスチックゴミ」とかってちゃんと結わいて中を覗かれないようにしたものが、全部中がバラバラに見えるようにされて、ベルトコンベアの上を流れるんです。そこに作業員の人たちが左右にたくさん配置されていて、「あなたは燃えるゴミの中に燃えないゴミが入ってたらそれを取る役割ね」「あなたは燃えるゴミの中にビニールゴミが入ってたらそれを取る役割ね」とかって、あらかじめ決められた人たちが決められた仕事を黙々とこなす。

それを経験した人に訊くと、「時々1万円札が流れてきたりするんだよ」っていう話があるんですけれども、それは普通の人では耐えられないような臭いの中でやる仕事なんだそうです。そうやってもう一回仕分けされて、初めて燃えるゴミは燃やされる。ちゃんとそこで取り分けたビニールゴミはビニールゴミとして処理される、燃えないゴミは燃えないゴミとして処理されるっていうことが、今の世の中のやり方なんですね。

東京の夢の島なんていう場所は、地面の下はそういう燃えないゴミの山ですね。今は島じゃなくて、本当にもう東京の江東区の地続きというか、普通の地面のようになっていて、その表面には公園ができたりとかしてます。

そういうゴミ処理のあり方が根本的に変わる。汚水の処理の仕組みも劇的に変わる。人間の食べる物も、動物とか魚さんは食べなくなるんだと思うんですね。植物が中心の食事になる。

その食事の仕方も、食欲を満たすための食事じゃなくて、人と人との心の交流の場としての食事に変わる。だから、多分「乾杯」っていう、世界中のいろんな言葉で「チアーズ」とかやっていると思うんですけど、そういう習慣は進化した世界でもきっと続くんだと思います。でも、お酒とかタバコとかいうものはなくなる。

で、一番大きな変化はエネルギーです。よく「フリーエネルギーがどうたらこうたら」って話が世の中にあるんですけど、宇宙人が現われて以降の世界は、どれぐらい経って実用化されるかはわかんないですけど、地球界で使われるエネルギーは、今、石油だとか石炭だとか、水力発電だの原子力発電だの太陽光発電だのってやってますけれども、電気はお役御免になります。

代わりに使われるエネルギーというのは、宇宙を生み出し動かしている大いなる力(宇宙生命エネルギー)です。それが神聖を現わした人間たちの体を通して、その人たちが使う機器に注ぎ込まれて、その宇宙生命エネルギーを使って、例えばテレビみたいなディスプレイで映像を見ることもできるし、乗り物を動かすエネルギーにもなるし、もちろん照明のような明かりをつけるエネルギー源にもなるし、っていう形で、電気とか水素エネルギーだとか、何たらエネルギーだとかっていうものが全部いらなくなって、その宇宙生命エネルギーがすべてを動かす力として使われる世界に移行してゆきます。

円盤の本を読んだことのある方は、円盤がどういう原理で動いているというのを読んで知っていらっしゃると思います。例えば金星と地球を行き来する円盤を動かす動力源というのは、物理的には円盤の中心にある水晶のような装置なんですけど、その装置に動力エネルギーを注いでるのは機長さんなんですね。機長さんの心波で動いてるって言っても過言ではない。

例えば金星から地球へ来るってなったら、金星から離れて宇宙空間に入るまでの間と、地球の上空に到着して、地球の大気圏内に入るという段階から着陸するまでの間は、機長さんが操縦桿を握って円盤を運転(操縦)しているんですけれども、宇宙空間をまっすぐ航行している時っていうのは、今の自動車の自動運転みたいな、運転手が張り付いてなくても自動的に動くという状態で動いています。だけど、今の自動運転と違うのは、機長さんがすべてを心波でコントロールしているというところです。

それと同じことが日常生活のあらゆる場面に応用されることになるんですね。だから、その人が神聖を発揮してないっていう場合には、そのエネルギーを使えないんです。使えない人は使える人の助けを借りてっていうことになるんですけど、そうなると、ちょっと肩身が狭い想いをしかねないと思いますので、私たちは自分たちに余力を持って生きられる練習を今のうちにしてゆきたいと思うんです。「命の力に余力を持つ」。それは「器を大きくする」という言い方もできると思いますし、「霊体が大きくなる」って言い方もできます。

例えば、そうですね、軽自動車と、4リッターとか4.5リッターの大きな高級車、例えばベンツだとかジャガーだとか、そういう高級車と軽自動車を両方運転したことのある方はご存知だと思うんですけれども、軽自動車で高速道路を例えば100キロで走るという時は、結構真剣にハンドル握るんですね。

それはもう軽自動車が非力だから、アクセルを一所懸命に踏んで100キロ出したら、軽自動車はアップアップしながら動いているから、そのハンドルを握っている人間も気を抜けないという状態になるんです。

ところが、ベンツだのジャガーだのBMWだのっていう大きな車になると、100キロで走行しても、アクセルをちょっと踏むだけでいいし、ハンドルもそんなに命がけで握らなくても、軽く手を添えているだけでいい。そして、車内は静かです。

軽自動車で100キロ出したときの車内のうるささったらもうどうにもならないうるささですよね。でも大きな車は100キロ出しても車内は静かだし、命がけで運転しなくても余裕を持って運転できるし、ということになるんですね。

人間のあり方もそれと同じように、器(霊体)を大きくして生きると、命の力に余力というものが出てくるんです。他に分けて差し上げる余力が出てくる。

昔、昌美先生がまだお体が弱かった、宇宙子科学が始まる前の頃、昌美先生が寝込んでいるおそばで五井先生が一生懸命お祈りしていたのを、はたの人が見ていたのですが、そのときの五井先生の祈りというのが、「神様、私にまだ徳が残っているのなら、その徳を全部、昌美にあげてください」というような内容のお祈りだったそうです。

言葉としては必死な感じですけれども、五井先生の本体は無限に生命エネルギーが湧き出てくるところにあるので、いくら他人に生命エネルギーを注いだって枯渇することがない。五井先生の本体はそれを分かっているからこそ、肉体の五井先生にそういうお祈りの仕方をさせた、という出来事があったそうです。

今の時代っていうのは、私たち一人一人が命の余力を持って、今苦しいって思われている方々が、そこから抜け出せる契機になるような、生命エネルギーの使い方(お裾分け)をしてゆける時代だと思っております。

そのためにも、「自分は何者なのか」ということを、もう朝・昼・晩、いつでも、一日に何回でも深掘りして、「神聖が当たり前」という意識を当然のものにしてゆきたいと思います。みんなでそうなってゆきたいと思います。

「誰か特別な人なんていらない」ってさっきも言ってましたけど、特別な人なんか要らないんです。特別な人って言い方したいんだったら、例えばここにいるみんな、皆さん全員が特別な人なんです。それぐらいの自覚、「自分が今、何者としてここに存在しているのか」という自覚を持って過ごしていただけると、ありがたく思います。

それでは最後に神聖復活の印をまた1回組んで終わりにしたいと思います。

<神聖復活の印>

ありがとうございます。それではこれで終わりにしたいと思います。次回は5月2日の土曜日になります。それでは本日もご参加、ありがとうございました。皆様のマイクをオンにします。

<バイバイタイム>

 

以上