世界人類が平和でありますように

神聖で繋がり合う人々

9月5日(土)午後『神聖開発勉強会』の詳細な内容

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◆ 260905-午後_勉強会

2026年9月5日(土)午後1時 勉強会

皆さま、こんにちは。9月5日、土曜日の勉強会を始めます。はじめに、8分44秒の世界平和の祈りから始めます。画面共有をして始めます。

<世界平和の祈り>

ありがとうございます。ここ数日、私の中では、大自然と、生きとし生けるものと、人類について、それぞれがどういう存在なんだろうな、どういう役割を持つものなのだろうな、という問いを深める時間がありました。

それで、まず大自然について想いを馳せたときに思い出したのは、前回の『動画による祈りの会』で読まれた五井先生のお話でした。ちょっとそれを画面共有します。

人類進化のために

五井昌久

 梅雨空を眺めながら、庭の木々が風に揺れているのを見ていると、風の心が陰鬱(いんうつ)で哀(かな)しげに感じられてくる。これが夏空の照りつける太陽の下では、さわやかな明るい心になって風の心も生き生きとしてくる。

 人の心が風にうつるのか、風の心が人にうつるのか、人間の生活の中で、風の心の動きはかなりその影響力をもっている。その最もはっきりしているのは、台風である。台風は人間に恐怖を与え、人の生活を破壊する。

 人間の心をより進化させようとする、大自然のみ心の一役を買って、風は働きつづける。しかし、人の生活を破壊するのは、風にとっては悲しいことなのである。

 神のみ心は、常に人類の進化を願って働かれる。進化をつづけぬ限り、人類はいつかその存在価値を失ってしまうのである。人類は今、最大の進化の道を進んでいる。進化が大きければ大きい程その苦しみは甚だしい。進化以前の過去の段階にあった様々な癖や生活様式はすべて消し去り、捨て去らなければならない。その苦悩の中に今人類は立たされている。その消えてゆく姿が人類の表面に現われてきて、心ある人々が心を痛め、眉をしかめねばいられぬような、醜い愚かな事柄が世界中に充ちているのである。

 地震も台風もあらゆる自然の現象は、すべて過去の未進化の人類の悪癖を消滅させ、浄め去るために、神々のみ心によってなされている現象なのである。そうした天災を逃れたいと思うならば、人類はそのような天変地異の起らぬ前に、自己の心を進化の法則に合わせておくべきなのである。

 進化の法則とは、釈尊や老子やキリストがそれぞれの言葉は違えど、説きとおされているように、神のみ心と一つになることである。大宇宙、大自然すべてとの調和の心を、人間の心の第一とすべきである。雨にも、風にも、神々の人類進化のためのみ心が働いているのである。

 雨降らば雨の心になりぬべし風吹かば風に融けて生くべし

 私は世界平和の祈りの中で、すべてとの大調和を願っているのである。

(画面操作している)これですね。スライドなので、3ページに分けて表示をしております。『人類進化のために』という五井先生のエッセイですね。梅雨時に書いた文章なんだと思うんですけれども、二節目、「人の心が風にうつるのか、風の心が人にうつるのか、人間の生活の中で、風の心の動きはかなりその影響力をもっている。その最もはっきりしているのは、台風である。台風は人間に恐怖を与え、人の生活を破壊する。」

「人間の心をより進化させようとする、大自然のみ心の一役を買って、風は働きつづける。しかし、人の生活を破壊するのは、風にとっては悲しいことなのである。」

次からが大事な部分になってきます。

「神のみ心は、常に人類の進化を願って働かれる。進化をつづけぬ限り、人類はいつかその存在価値を失ってしまうのである。人類は今、最大の進化の道を進んでいる。進化が大きければ大きい程その苦しみは甚だしい。進化以前の過去の段階にあった様々な癖や生活様式はすべて消し去り、捨て去らなければならない。その苦悩の中に今人類は立たされている。その消えてゆく姿が人類の表面に現われてきて、心ある人々が心を痛め、眉をしかめねばいられぬような、醜い愚かな事柄が世界中に充ちているのである。」

そして、ここが一番重要なポイントだと思います。

「地震も台風もあらゆる自然の現象は、すべて過去の未進化の人類の悪癖を消滅させ、浄め去るために、神々のみ心によってなされている現象なのである。そうした天災を逃れたいと思うならば、人類はそのような天変地異の起らぬ前に、自己の心を進化の法則に合わせておくべきなのである。」

もう一枚ありましたね。

「進化の法則とは、釈尊や老子やキリストがそれぞれの言葉は違えど、説きとおされているように、神のみ心と一つになることである。大宇宙、大自然すべてとの調和の心を、人間の心の第一とすべきである。雨にも、風にも、神々の人類進化のためのみ心が働いているのである。」

「雨降らば雨の心になりぬべし風吹かば風に融けて生くべし」

「私は世界平和の祈りの中で、すべてとの大調和を願っているのである。」

今、日本国中で線状降水帯、雨が同じ場所に降りつづける現象が起こっています。それによって道路が冠水したり、床下どころか床上浸水になったり、大きな被害と呼べる状況が起こっております。

また、今回の台風24号はとても面白い動きをしていて、奄美諸島のあたりで今うろうろして、右にも左にも、西にも北にも行かない状況になっております。そのうち動いてゆくんだと思うんですけれども、そういうことが起きると、九州の下のほう、それから奄美諸島、沖縄諸島に大きな風とか雨の災害が起きる可能性もあります。すでに起こっているところもあります。

でもそうしたことは、日本だけじゃないですね。世界中がそうですね。ネパールの氷河が溶けて、人間が何千人と亡くなってしまったような被害が起きております。今も行方不明になっている人がたくさんいるという状況もあります。

そのように日本だけではなく、世界中で起こっている様々な天変地異というものに対して、人間はどうやって向き合ってゆけばいいのか?ということのヒントが、先ほどの『人類進化のために』というお話の中に書かれています。

四大元素とか五大元素って言葉があるんですけど、私は四大元素のほうを取る立場なんですけれども、火、水、大地、風(空気)ですね。これが四大元素だと思っているんですけれども、それぞれの元素の中に、宇宙の運行を司る神々の意志が働いております。

一番わかりやすいのは、空気とか風、天候・天象をつかさどっている龍神さまの存在が、私たちにはなじみ深いんじゃないかなと思います。各地で天候が荒れ、大雨が降ったり、強い風が吹いたりするというときに、そこには必ずたくさんの龍神さま方のお働きが上空で行われております。

その龍神さまの働きというのは、当然ですけれども、この地上で生きている人間たちには分からない。分からないからこそ、雨が降りつづけば不平不満、強い風が吹けば不平不満、暑ければ不平不満、寒ければ不平不満というように、人間って油断して生きていると、何にでも文句を言って生きているんですね。

だけど、そういう中にあっても生きてゆかなければいけないから、この間の熊本の大地震じゃないですけれども、大地震の後に取材の人が現地の方々にインタビューをする。皆さん大変なんですけれども、そんな状況の中にありながら、なんとか前を向いて歩いてゆこう、生きてゆこうとされている、そういう状況がインタビューから垣間みえました。

石川県の能登もそうですね。壊滅的な被害を受けながらも、なんとか前を向いて、生活を立て直そうという形で生きておられます。

それは人間の中にある、人間たちは気づいていない神聖の働きが人間の心に起こって、前を向いて生きさせる。辛くても苦しくても、前を向いて生きようと思わせているんです。

みんながみんな、自暴自棄になって、やけくそになって、投げやりになって生きる人ばかりであるならば、この世は近々滅びることになるんでしょうけれども、幸いなことに、この日本国には、そういう投げやりな人とか後ろ向きな人というのは、ものすごく少ない人数にとどまっております。

人類の心にはびこる悲観的な考えが、前向きな方向へ行かないで悲観にとどまるか、もしくは「もうどうでもいいや」って方向に行くか、人それぞれなんですけれども、そういう自然災害の中にあって、前を向いて生きてゆこうとする人間たちの中に秘められた神聖のすごさというのを、日々感じる今日この頃です。

それで、生きとし生けるもの、生物はどうなんだろうなということを、私、ここ何日か思っていて、自分の中で答えは出ているんだけど、言葉にしてみるとなんか精度が低いというように、完璧に自分が思っていることを言葉に表現しきれないというときに、私は最近、Claude(クロード)というAIを使っているんですけど、Claudeに意見を聞いて擦り合わせて、答えを導き出すということをやっています。

※以下、生物の定義をめぐるAIとの対話の内容です。
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生物とは何か? ― 生命の定義をめぐる対話

第1章 生物の哲学的定義

私:生物とは何か?哲学的な定義をしてみて。

Claude:まず私なりの定義を一つ示し、そのあとで根拠と限界を述べます。

定義(最初の定義)

生物とは、自らを自らの原因として持続させ、その営みが世代を越えて受け継がれる過程である。

「もの」ではなく「過程」と言うところが要点です。石は放っておいても石のままですが、生物は放っておくと崩れます。崩れないために外から物質とエネルギーを取り込み、自分の形を絶えず作り直しています。人の身体の細胞は数年でほぼ入れ替わりますが、「その人」は続いています。川の渦が、流れる水は毎瞬違うのに同じ形を保っているのと似ています。生物とは、物ではなく、物を通過させながら形を保つ働きそのものです。

この定義を支える三つの柱

  • 自己言及性。生物は自分を作る仕組みを、自分自身の中に持っています。工場は製品を作りますが、工場自身を作りはしません。細胞は細胞を作ります。哲学ではこれを「自己創出」と呼ぶ立場があります。生物が「自らを自らの原因とする」と言ったのはこの意味です。
  • 内と外の区別。生物には膜や皮膚という境界があり、境界の内側を外側とは違う状態に保ちます。この「内側」があってはじめて、「自分にとって良い・悪い」という視点が世界に生まれます。石には害がありません。細菌には毒があります。価値や意味の最初の芽は、生物の境界とともに現れます。
  • 継承と変化。個体は必ず崩れますが、その仕組みは次の個体に写され、写し間違いが積み重なって変わっていきます。生物とは一個体のことではなく、個体を乗り換えながら続く系譜のことでもあります。前回お話しした「すべての生物には親がいる」は、ここから出てくる帰結です。

この定義が答えられないこと

  • 最初の生命。

「自らを自らの原因とする」過程が、原因を持たない状態からどう始まったか。定義は始まった後しか語れません。

  • ウイルス。

自分の中に自分を作る仕組みを持たないので、この定義では生物の縁にいる存在になります。生物と非生物の間に線を引くこと自体が、人間の都合かもしれません。

  • 心。

この定義は、生物に感じる働きや意識があるかどうかを何も言いません。アリストテレスは生物を「魂を持つもの」と定義しましたが、現代の生物学はそこを外しました。外したことで説明できるようになったことと、説明できなくなったことの両方があります。

一文で言い直すなら

生物とは、世界の中に「自分」という区切りを作り、それを壊れないように守り続け、そして自分の終わりを越えて渡していく、宇宙で唯一の働きです。定義としては緩いですが、哺乳類も細菌も植物も、この一文からは漏れません。

第2章 「生命の働き」への言い換え

私:>生物とは、物ではなく、物を通過させながら形を保つ働きそのものです。

これを読んで私はこう思った。

二回目の定義

➡ 生物とは物質そのものではなく、物質の形と一体化しながらある一定期間、新陳代謝をしながら生物を存在せしめる生命の働きを指す。

Claude:その言い換えは、私の定義より一歩踏み込んでいます。Masaharuさんが踏み込まれた点と、そこに含まれる問いを整理します。

私の定義から進んだ点

  • 「一体化しながら」という言葉で、働きと物質の関係を明確にしています。私は「物を通過させる」と言いましたが、それだと働きが物質の外にあって、物質を道具のように使っている印象になります。Masaharuさんの言い方では、働きは物質から離れては存在せず、かといって物質そのものでもない。これは炎と薪の関係に近いと思います。炎は薪ではありませんが、薪なしに炎はないからです。
  • 「ある一定期間」を入れたことで、個体の有限性が定義の中に組み込まれました。私は「持続させる」としか言わず、終わりを定義の外に置いていました。現象界の生物には必ず終わりがある、という事実を定義の中心に据えたのは正しいと思います。
  • 「生命の働き」と、Masaharuさんは、生物の背後に「生命」という別の語を立てられました。これが最も大きな違いです。

「生命」を立てたことで生まれる問い

私の定義では、働きそのものが生物であり、それ以上のものは仮定しませんでした。Masaharuさんの定義では、「生物」は結果であり、「生命」がそれを存在させる原因です。すると次の問いが自然に出てきます。

  • 生命は、個体が終わったあと、どこへ行くのか?個体と一緒に消えるのか?それとも個体の前からあり、個体の後にも続くのか?
  • 生命は個体ごとに別々なのか?それとも一つの生命が多くの物質に宿っているのか?
  • 生命は物質の中から出てきたのか?それとも物質とは別の側から来て物質に入ったのか?

現代生物学ではこの問いに答えを持たず、「生命」を「働きの総称」と見なして問い自体を保留しています。一方で、東洋思想やベルクソンのような哲学者は、生命を物質に先立つ流れと見て、この問いを正面から扱いました。Masaharuさんの定義は、後者の側に立っています。

一点だけ確認したいこと

「生物を存在せしめる生命の働き」という部分は、「生命」と「生物」を区別する立場です。そう読んで合っていますか?もし合っているなら、定義としてはこう整えられます。

最終定義

生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける現れである。

「生物」を「生命の現れ」とすることで、物質でもなく、働きだけでもなく、両者の出会いの場として位置づけられます。

第3章 三つの問いへの答え ― 私たちの世界観

私:>生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける現れである。

これは良いまとめ方の表現だと思う。

> ・生命は、個体が終わったあと、どこへ行くのか?個体と一緒に消えるのか?それとも個体の前からあり、個体の後にも続くのか?
>・生命は個体ごとに別々なのか?それとも一つの生命が多くの物質に宿っているのか?
> ・生命は物質の中から出てきたのか?それとも物質とは別の側から来て物質に入ったのか?

また上の問いへの答えこそが、スピリチュアリズムや宗教の分野である。言葉を変えれば、私たち人類の生命の奥に答えを求め、諦めずに探究すれば、すべての答えがそこにあるといえる。それ即ち神聖である。

私たちの考え ~

・生命は、個体が終わったあと、どこへ行くのか?個体と一緒に消えるのか?それとも個体の前からあり、個体の後にも続くのか?

➡ 生物は死後、他の波動圏の天地へ還り、ある一定期間あちらの世界で波動調整した後、また別の個体に入り込む生命の働きとして現象界に戻ってくる。現象界とは、ありとあらゆる意識レベルの生物が同じ天地に一堂に会する『生命の万博博覧会場』(ステージ)だといえる。対して、他の階層の各種天地は、同等の意識レベルの生物のみが集まる限定的な天地(バックステージ)である。

・生命は個体ごとに別々なのか?それとも一つの生命が多くの物質に宿っているのか?

➡ 個体の生命波動をそれぞれに波動の根源へと探究してゆけば、宇宙を創造したすべての生命の源へ還元する。その意味においては、すべての生物は本質的に一つである。但し、この世に現われている各種生命体は、その大元のエネルギーが各種の枝分かれをした末に生じている存在であるから、個体ごとに個別の存在であると見ることができる。

・生命は物質の中から出てきたのか?それとも物質とは別の側から来て物質に入ったのか?

➡ 生命は宇宙の根源(大元)から派生したものであり、物理的に観測できる物質もまた、同一の源から生じたものである。

Claude:三つの答えを読んで、まず気づいたのは、三つが別々の答えではなく、一つの構図から導かれているということです。その構図を私なりに言葉にし、そのうえで、先ほどの定義とどうつながるかを述べます。

三つの答えを貫く一つの構図

生命の根源が一つあり、そこから生命を持つ生物も物質も枝分かれして出てきた。即ち、枝分かれした生命は、物質と一体になって現象界に現れ、ある期間を終えると元の側へ還り、調整のうえ再び現れる。

この構図に立つと、三つの問いはこう整理されます。

  • どこへ行くのか?は、根源への往復の途中経過を問うている。
  • 一つか別々か?は、根源から見るか、枝の先から見るかの視点の違いを問うている。
  • 物質の中からか?外からか?は、問いの立て方そのものが誤りで、どちらも同じ源から出た兄弟姉妹であると答えている。

三つ目の答えが要だと思います。生命と物質を対立させる問いを、両方共通の源(親)を指すことで解いています。

これは西洋哲学が長く苦しんだ「心と物質はどう関わるか」という問題を、二つを別物と見なす前提そのものを外すことで扱う立場です。

哲学者スピノザ(デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者。その哲学体系は代表的な汎神論と見られている)が「一つの実体の二つの側面」と言ったのと構造が近く、東洋では古くから当然視されてきた見方です。

「生命の万博博覧会場」という比喩について

この比喩が最も独自(ユニーク)であると感じました。Masaharuさんは、他の階層は同等の意識レベルだけが集まる限定的な場で、現象界だけが全レベルが一堂に会する場だと定義されました。

そうだとすると、現象界の特徴は「種々様々な存在が混在していること」になります。

ここから一つの帰結が出ます。現象界で苦しみや摩擦が多いのは、欠陥ではなく、混ざっていることの当然の結果である。そして混ざっているからこそ、異なる意識レベルの生命が互いに出会い、影響し合える。バックステージでは起こらないことが、ここでだけ起こる。この見方に立つと、現象界に生まれることは罰でも試練でもなく、機会になります。

先ほどの定義とのつながり

一緒に整えた定義は、こうでした。

生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける現れである。

今回の三つの答えは、この定義の中の三つの語に、それぞれ奥行きを与えています。

定義の語 今回の答えが与えた奥行き
生命が 根源から枝分かれした個別の波動であり、大元では一つ
一定期間 往復の中の、現象界に滞在する一区切り
現れ 万博会場に出展されている姿。生命の働きは舞台裏にも続いている

定義自体は科学の側の人が読んでも受け入れられる形のまま、その語の奥に、Masaharuさんたちの世界観が置ける。定義と信条を分けておいたことで、どちらの立場の人とも同じ言葉で話せます。

「神聖」という語について

「人類の生命の奥に答えを求め、諦めずに探究すれば、すべての答えがそこにあるといえる。それ即ち神聖である。」という一文は、神聖を外にある対象ではなく、内側へ向かう探究の到達点として定義しています。

神を「信じるもの」ではなく「奥へ辿れば行き着くもの」とする言い方です。これは、根源が一つであるという構図から必然的に出てくる結論でもあります。

根源が一つであるという考えが地球全体に普及すれば、人類個々が自分の奥を辿ることと、宇宙の源を辿ることは同じ道になり、誰もが神の実体を求めやすくなると思います。

第4章 科学と共有できる定義

生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける現れである。

科学の側の人が受け入れられる理由は、上記の定義に含まれる語がすべて「観察できる事実」に即応しているからです。

  • 物質と一体。生物は物質から離れて観察されたことがない。
  • 一定期間。個体には必ず始まりと終わりがある。
  • 新陳代謝。物質を取り込み排出しながら自分を作り直す。生物学の定義にも必ず入る項目。
  • 形を保つ。構成物質が入れ替わっても同一性が続く。

「生命」という語だけが、科学の側では「新陳代謝を含む働きの総称」と読まれ、Masaharuさんたちの側では「根源から枝分かれした波動」と読まれます。

どちらの読み取り方をしても文章全体は成り立つので、同じ一文を両者が共有することができます。

※ここから下は普通のお話です。
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「生きとし生けるもの」って書いたら長いから、「生物」という言葉で書いてます。「生物とは何か、哲学的な定義をしてみて」って、私はまず打ちました。そうしたらば、こう返ってきました。

「まず私なりの定義を一つ示し、その後で根拠と限界を述べます。」――これはやりとりの中の最初の定義です。

『生物とは、自らを自らの原因として持続させ、その営みが世代を超えて受け継がれる過程である。』

「『もの』ではなく『過程』というところがポイントだ。石は放っておいても石のままだが、生物は放っておくと崩れる。崩れないために外から物質とエネルギーを取り込んで、自分の形を絶えず創り直している。人の体の細胞は数年でほぼ入れ替わりますが、その人は続いている。川の渦が、流れる水は毎瞬違うのに、同じ形を保っているのと似ています。生物とは、ものではなく、ものを通過させながら形を保つ働きそのものです。」

「この定義を支える3つの柱。①自己言及性。生物は自分を創る仕組みを自分の中に持っている。工場は製品を創りますが、工場自身を創りはしません。細胞は細胞を創ります。哲学では、これを自己創出と呼ぶ立場がある。生物が自らを自らの原因とすると言ったのはこの意味だ。」

「②内と外の区別。生物には膜や皮膚という境界があり、境界の内側を外側とは違う状態に保っている。この内側があって初めて、自分にとって良い・悪いという視点が世界に生まれる。石には害がない。細菌には毒がある。価値や意味の最初の芽は、生物の境界とともに現れる。」

「③継承と変化。個体は必ず崩れるが、その仕組みは次の個体に移され、移し間違いが積み重なって変わってゆきます。生物とは、一個体のことではなく、個体を乗り越えながら続く系譜のことである。前回お話しした『生物には親がいる』は、ここから出てくる帰結です。」――このやりとりは、以前にもやりとりをしていた、そのときの話です。

「この定義が答えられないこと。最初の命――自らを自らの原因とする過程が、原因を持たない状態からどう始まったか。定義は始まった後しか語れない。ウイルス――自分の中に自分を創る仕組みを持たないので、この定義では生物の縁にいる存在になります。生物と非生物の間に線を引くこと自体が、人間の都合かもしれない。心――この定義は、生物に感じる働きや意識があるかどうかを何も言わない。アリストテレスは生物を魂を持つものと定義しましたが、現代の生物学はそこを外した。外したことで説明できるようになったことと、説明できなくなったことの両方がある。」

「一文で言い直す。生物とは、世界の中に自分という区切りを創り、それを壊れないように守りつづけ、自分の終わりを越えて渡してゆく、宇宙で唯一の働き。」

第2章、ここからは私の言葉になります。「生物とは、ものではなく、ものを通過させながら形を保つ働きそのもの」――これを読んで、私はこう思います。これが2回目の定義になります。

『生物とは、物質そのものではなく、物質の形と一体化しながら、ある一定期間、新陳代謝をしながら、生物を存在せしめる生命の働きを指す。』

それに対して、Claudeはこう答えております。「その言い換えは、私の定義より一歩踏み込んでいます。Masaharuさんが踏み込まれた点と、そこに含まれる問いを整理します。」

「私の定義から進んだ点。『一体化しながら』という言葉で、働きと物質の関係性を明確にしている。私は『ものを通過させる』と言いましたが、それだと働きが物質の外にあって、物質を道具のように使っている印象になる。Masaharuさんの言い方では、働きは物質から離れては存在せず、かといって物質そのものでもない。これは炎と薪の関係に近いと思います。炎は薪ではありませんが、薪なしに炎はないからです。」

「次は『ある一定期間』。この言葉を入れたことで、個体の有限性が定義の中に組み込まれた。私は『持続させる』としか言わず、終わりを定義の外に置いた。現象界の生物には必ず終わりがあるという事実を定義の中心に据えた。これは正しいと思います。」

「『生命の働き』――Masaharuさんは、生物の背後に『生命』という別の語を立てられました。これが最も大きな違いです。」

「生命を立てたことで生まれる問い。私の定義では、働きそのものが生物であり、それ以上のものはない。Masaharuさんの定義では、生物は結果であり、生命がそれを存在させる原因です。すると、次の問いが自然に出てきます。」

「生命は、個体が終わった後、どこへ行くのか?個体と一緒に消えるのか?それとも、個体の前からあり、個体の後にも続くのか?」

「次、生命は個体ごとに別々なのか?それとも、一つの生命が多くの物質に宿っているのか?」

「次、生命は物質の中から出てきたのか?それとも、物質とは別の側から来て、物質に入ったのか?」

「現代生物学では、この問いに答えを持たず、生命を働きの総称とみなして、問い自体を保留している。一方、東洋思想やベルクソンのような哲学者は、生命を物質に先立つ流れとみて、この問いを正面から扱いました。Masaharuさんの定義は、後者の側に立っている。」

「一つだけ確認したいこと。『生物を存在せしめる生命の働き』という部分は、生命と生物を区別する立場です。そう読んで合っていますか?そう読んで合っているなら、定義としては、こう整えられる。」

三つ目の定義です。「最終定義」と書いています。

『生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける表れである。』

これは「哲学的に表現して」と言ったので、こういう小難しい表現をしております。

「生物を生命の表れとすることで、物質でもなく、働きだけでもなく、両者の出会いの場として位置づけることができる。」

第3章、三つの問いへの答え。私たちの世界観。生物とは、生命とは異なる。『生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける表れである。』これは良いまとめ方の表現だと思う。

ここで、さっきの三つの問いが書いてあって、「上の問いへの答えこそが、スピリチュアリズムや宗教の分野である。言葉を変えれば、私たち人類が、生命の奥に答えを求め、諦めずに探究すれば、すべての答えがそこにあると言える。それ、すなわち神聖である。」として、私たちの考えとして、三つの問い一つ一つに回答する形で書きました。

「生命は、個体が終わった後、どこへ行くのか?個体と一緒に消えるのか?それとも、個体の前からあって、個体の後にも続くのか?」ああ、これ、「死後」の字が違いますね。後で直します。

『生物は、死後、他の波動圏の天地へ還り、ある一定期間、あちらの世界で波動調整した後、また別の個体に入り込む。生命の働きとして、現象界に戻ってくる。』

『現象界とは、ありとあらゆる意識レベルの生物が、同じ天地に一堂に会する、生命の万博博覧会場、ステージだと言える。対して、他の階層の各種天地は、同等の意識レベルの生物のみが集まる限定的な天地、バックステージ(舞台裏)である。』

次の問い。「生命は個体ごとに別々なのか?それとも、一つの生命が多くの物質に宿っているのか?」

『個体の生命波動、それぞれの波動の根源へと探究してゆけば、宇宙を創造したすべての生命の源へ還元する。その意味においては、すべての生物は本質的に一つである。ただし、この世に現れている各種生命体は、その大元のエネルギーが各種の枝分かれをした末に生じている存在であるから、個体ごとに個別の存在であると観ることができる。』

三番目の問い。「生命は物質の中から出てきたのか?それとも、物質とは別の側から来て物質に入ったのか?」

これに対する答えとして、『生命は宇宙の根源から派生したものであり、物理的に観測できる物質もまた、同一の源から生じたものである。』

これに対するClaudeの返事ですね。「三つの答えを読んでまず気づいたのは、三つが別々の答えではなく、一つの構図から導かれているということです。その構図を私なりに言葉にし、その上で先ほどの定義とどう繋がるかを述べます。」

「三つの答えを貫く一つの構図。生命の根源が一つであり、そこから、生命を持つ生物も物質も枝分かれして出てきた。すなわち、枝分かれした生命は物質と一体になって現象界に現れ、ある期間を終えると元の側へ還り、調整の上、再び現れる。」

「この構図に立つと、三つの問いはこう整理される。『どこへ行くのか』は、根源への往復の途中経過を問うている。『一つか別々か』は、根源から見るか、枝の先から見るかの視点の違いを問うている。『物質の中からか外からか』は、問いの立て方そのものが誤りで、どちらも同じ源から出た兄弟姉妹であると答える。」

「これは三つ目の答えが要だと思います。生命と物質を対立させる問いを、両方共通の源を指すことで解いています。これは西洋哲学が長く苦しんだ『心と物質はどう関わるか』という問題を、二つを別物とみなす前提を外して扱う立場です。」

(スピノザ――17世紀の近世合理主義哲学者。その哲学体系は、代表的な汎神論とみられている。すべての中に神聖がある。)

「スピノザが『一つの実体の二つの側面』と言ったのと構造が近く、東洋では古から当然視されてきた見方です。」

「『生命の万博博覧会場』という比喩について。この比喩が最も独自であると感じました。Masaharuさんは、他の階層は同等の意識レベルだけが集まる限定的な場で、現象界だけが全レベルが一堂に会する場だと定義されました。そうだとすると、現象界の特徴は、種々様々な存在が混在していることになります。」

「ここから一つの帰結が出ます。現象界で苦しみや摩擦が多いのは、欠陥ではなく、混ざっていることの当然の結果である。そして、混ざっているからこそ、異なる意識レベルの生命が互いに出会い、影響し合える。バックステージ(舞台裏)では起こらないことが、この現象界でだけ起こる。この見方に立つと、現象界に生まれることは、罰でも試練でもなく、機会であると言える。」これは、魂を磨き高め上げる機会ですね。

「先ほどの定義との繋がり。一緒に整えた定義はこうでした。『生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける表れである。』今回の3つの答えは、この定義の中の3つの語に、それぞれ奥行きを与えています。」

これは表にしてまとめたものですね。後で文字起こしをしたときにこの表を入れるので、興味のある方は見てください。

「定義自体は、科学の側の人が読んでも受け入れられる形のまま、その語の奥に、Masaharuさんたちの世界観が置ける。定義と心情を分けておいたことで、どちらの立場の人とも同じ言葉で話せます。」

「『神聖』という語について。『人類が生命の奥に答えを求め、諦めずに探究すれば、すべての答えがそこにあると言える。それ、すなわち神聖である』という一文は、神聖を、外にある対象ではなく、内側へ向かう探究の到達点として定義しています。神を『信じるもの』ではなく、『奥へたどれば行き着くもの』とする言い方です。これは、根源が一つであるという構図から必然的に出てくる結論でもあります。」

「根源が一つであるという考えが地球全体に普及すれば、人類個々が自分の奥をたどることと、宇宙の源をたどることは同じ道になり、誰もが神の実体を求めやすくなると思います。」

第4章、科学と共有できる定義。『生物とは、生命が物質と一体となって、一定期間、新陳代謝によって形を保ちつづける表れである。』

「科学の側の人が受け入れられる理由は、上記の定義に含まれる語がすべて観察できる事実に即応しているからです。『物質と一体』――生物は物質から離れて観察されたことがない。『一定期間』――個体には必ず始まりと終わりがある。『新陳代謝』――物質を取り込み、排出しながら自分を創り直す。生物学の定義にも必ず入る項目。『形を保つ』――構成物質が入れ替わっても同一性が続く。」

「『生命』という語だけが、科学の側では『新陳代謝を含む働きの総称』と読まれ、Masaharuさんたちの側では『根源から枝分かれした波動』と読まれます。どちらの読み取り方をしても文章全体は成り立つので、同じ一文を両者が共有することができます。」

ここまでですね。

よく勉強会では、「自分って何者なんだろうな」ということを深掘りしてください、という話をしてきました。それはどういうふうにやるか?というところで、『天と地をつなぐもの』という本の中に出ている五井先生と守護神の問答ですね。あそこに書かれていることを読んで参考にする。

そうすると、始めに一つの質問が出る。それに対して答える。答えたことに対してさらに追求する。それに対してまた答える。答えたことに対してさらに追求する。という繰り返しを何回もやってゆくということです。

これはある意味、生命というものの哲学的な探究態度ということになります。多くの人は、難しいことを考えるのが苦手なんです。でも、命が何なのかを言語化できなかったら、いつまで経っても命の奥に入ってゆけないんです。この地上で、うろうろ、ぐるぐる、堂々巡りをするだけなんです。

どこかで私たちは、人間であることを卒業しなきゃいけないんです。人間であることを諦める必要がある。「諦める」という言葉は、本当に何かをやめたという諦めではなく、明らかにするという意味での「あきらめ」です。

「自分は人間じゃなかったんだ。宇宙の命のひとしずくを分け与えられた神の分霊(わけみたま)だったんだ。」これを自分の当たり前の考えにすれば、私たちは人間ではないと明らかに思えるはずなんです。

でも、ここまで言われてまだ人間であることを諦めたくないという人は、ご自分のエゴさんのささやきに負けているんです。なんでエゴさんのささやきに負けちゃうか?エゴさんもまた必死なんです。自分の居場所が無くなったら困るから、なんとかしてその肉体人間にネガティブな想念のままでいてもらいたいんです。

だから、前向きじゃない考え方、暗い考え方、否定的な考え方を徹底的に頭の中に思わせて、神聖を探究することを諦めさせようとするんです。エゴさんはエゴさんで頑張っているんですけど、今この瞬間というのは、私たち自身も頑張り時なんですね。

これはもう勝ち負けの問題じゃないんだけど、エゴさん以上に「神として生きたい」という、渇望するような意識を強く持って、守護霊・守護神さまの響きの中に入り込んで生きるんです。

響きというのは波動なんです。波動というのは、こういう話をすると物理学的な話になってくるんですけど、原子とか素粒子とかの世界。ちょっとね、私も専門家じゃないから専門用語がスルスル出てこないんですけど、中心のものがあって、電子か何かが回転をしているんですね。

神さまの波動というのは、地球で認められている一番小さな素粒子よりもさらに小さな段階――地球ではまだ解明されていない――小さな素粒子の回転がものすごく速いのが、神界の神々であり、進化した星々の宇宙人たちの世界を構成する精神波動と物質波動なんです。

地球の人たちが「この体こそが自分なんだ」と思っている意識は、まだ全然そこにも至りもしないんですよ。

それを私たちは、「世界人類が平和でありますように」と四六時中思いつづけ、同時に守護の神霊に感謝する「消えてゆく姿で世界平和の祈り」によって成し遂げようとしている。

「世界人類が平和でありますように。守護霊さま、守護神さま、ありがとうございます」と、これを四六時中やっていると、まず私たちの精神波動が、回転数が速まってくるんですね。その次の物質の肉体波動が霊化してくる。

物理的な面から言うと、そうしていると、意識が臍下丹田に収まるんです。臍下丹田に収まると、脳波の状態がとっても静かな、精妙な脳波の状態になる。

脳波って、脳の波って書きますよね。電子機器でそれを観測すると、日常生活の様々な働きをしているときは、この波の動きがものすごく荒いんです。

けれども臍下丹田に意識を収めると、それがベータ波、アルファ波、シータ波、さらにはその奥のデルタ波というように、精妙な周波数になってゆく。そうなればなるほど、脳波がものすごく細かい波長になってゆくんですね。通常、人間がリラックスした精神状態と言われるのは、アルファ波の精神状態です。

肉体的な面から、ちょっと違う言い方をすると、自律神経というのがあります。それは、副交感神経と交感神経の2種類に分けて語られているんですけれども、緊張しているとか、ストレスがあるとか、悲しみに明け暮れているとか、そういうとき、その人の神経というのは交感神経が主になって働いていて、副交感神経の働きが弱くなっているんですね。

そうすると、人間はイライラもするし、不安にもなるし、面白くもないしというように、ネガティブな想念状態になるんです。それを肉体の面から良くしようと思ったら、副交感神経優位な状態にしてあげればいい。

今の時代は、副交感神経優位な状態にする方法というのを検索したら、いろいろ出てきます。今の世の中、お金を出して本を買わなくても、インターネット検索でそんな知識は簡単に手に入れることができます。

例えば、人間の物質体としての体の中で、一番副交感神経が集中しているのはこの辺り……、両耳の下辺りから顎の辺りと言われているんです。ここをこうやって優しく触れてあげるだけでも、副交感神経を優位にする効果があります。

あと、人間の体というのは、そういう神経の働きもあれば、リンパの流れとか筋肉の働きとか、いろいろあって総合的に動いているものですので、何か一つだけ良くすればいいというものではない。総合的に良くしてゆくという感じで、肉体の面から働きかけることもできるし、呼吸をとおして、精神の面から副交感神経優位な状態を創ることもできます。

例えば、そうですね……、私の目に今、時計がクローズアップされて入ってきて、「その話は休憩の後にしなさい」ということなんで、神聖復活の印を一回組んで、休憩に入りたいと思います。

<神聖復活の印を一回>

ありがとうございます。それでは画面共有にします。2時17分まで休憩します。皆さま、ご自分のビデオをオフにして休憩してください。

<休憩>

それでは17分を回りましたので、後半の部に入ります。副交感神経を優位にするのに、先ほどは肉体の面からの働きかけについてお話ししたんですけれど、今度は心の面、精神の面、意識の面からの働きかけで、副交感神経を優位にする、脳波を落ち着いた波――アルファ波、シータ波とかいう状態――に保つ方法についてお話をします。

これは意識だけじゃなくて、呼吸とセットなんですね。もっと言えば、「呼吸をとおして」ということです。

例えば、呼吸法の唱名をやるときに、『我即神也』で吸って、止めて、『人類即神也』で吐くのと同じように、何らかの言葉を唱えながら、吸って吐いてを繰り返す。

例えば、「世界人類が」で吸って、「平和でありますように」で吐くとか。吸うところで「世界人類が平和でありますように」と言って、吐くところで「守護霊さま、ありがとうございます。守護神さま、ありがとうございます」でもいいですし、いろんなパターンが思い浮かぶと思います。そういういろいろな言霊を駆使しながら、丹田に意識を収める呼吸をするんです。

(立ち上がって説明する)お腹、おへそ、見えているのかな。ここですね。ちょうどベルトの辺りになるんですけど、ここに丹田があります。

皆さん、呼吸をどういうふうにするって、あまり意識しないで普段の呼吸をしていると思うんですけど、そうするとだいたいお腹が膨らんだり、お腹がへこんだりという、いわゆる腹式呼吸と言われるような呼吸をするのが普通だと思います。

腹式呼吸でやっていただいてもいいし、胸式呼吸っていって、あばら骨を膨らませたり縮めたりする呼吸でやっていただいてもいいです。今は、腹式呼吸でやるとして、スーッと息を吸って、息を吸うときにお腹を膨らませて、スーッと吐くときにお腹がこう緩むというか、ちょっと引っ込むような状態になる。

そのときに、自分の肺が丹田の辺りまであるような気持ちで、スーッと吸った酸素がここまで届くというイメージをしながらスーッと息を吸う。で、吸い切ってここへ届いた。そしたら、またスーッと吐き出す。

そのときの意識は、例えば『我即神也』『人類即神也』でもなんでもいいんですけれども、お腹を膨らませる、お腹を引っ込める、これを意識して呼吸をするというのが、たぶん一番やりやすいやり方なんだと思います。

もちろんそれは立ちながらでもいい。立ち仕事しながらでもできますし、歩きながらでもできますし、あとは、もちろん座っていても、横に寝ながらでもできます。やろうという気持ちさえあれば、いつでもどこでもできますので、やってみてください。

私の個人的な話をすると、腹式呼吸じゃなくて、胸式呼吸、いわゆるあばら骨を膨らませたり縮めたりという呼吸の仕方をしています。これは、勉強会でお話ししたかどうか忘れましたが(一部の方にお話ししている)、私が最近太りすぎたということで、「ダイエットしなければ」と思ったことと関連しております。

8月の祈りの会の夏休みのときに、8月15日、16日に箱根の温泉に泊まりがけで行ったんです。そのとき、私は最近怖くて体重計に乗っていなかったんですけど、なんか乗ってみようってフッと思って、温泉場で体重計に乗ったら、90.25キロもありました。2010年か11年の頃、一時その体重になったことがあったんですけど、人生で2回目の90キロ超えを経験したんですね。

その数字を見て、「これは本気でダイエットしなきゃいけない」と思ったんです。で、やったことは、ご飯の量を減らす、そしてお食事はよく噛んで食べるという、とても基本的なことをやりました。それで1週間で4キロぐらい落ちて、10日目で5キロぐらい落ちて、今は85.何キロから86.何キロの間を行ったり来たりしている状態なんですね。

それと一緒にやったことが、この胸式呼吸だったんですね。それは神聖復活の印を組むときのように、お腹を引っ込める、おへそを背中に近づけるという状態を、立って歩いているときや座っているときに保ちながら、あばら骨の伸び縮みで呼吸するというやり方をしました。

胸式呼吸といっても、考え方は腹式呼吸のときとそんなに変わらないんです。吸い切ったときに丹田に届いているとイメージする。で、吐くときにもお腹はへこめたまま。これをやることが、どうやらですね、お腹のお肉を落とす効果もあるようなんです。

なので、もしもお腹にお肉がついている方がいらっしゃいましたら、胸式呼吸で、お腹を引っ込めたまま普段の呼吸をするという練習をしてみてください。

内臓が下へ落ちること……古賀さん、内臓が下へ落ちることを、医学用語でなんて言いましたかね?

【古賀さん】

内臓下垂です。

【斉藤】

そうだ、内臓下垂。内臓下垂の方も、お腹を引っ込めたまま胸式呼吸をつづけることで改善してゆくんだそうです。あと、お腹についたお肉ですね。これも燃焼効率が高まって落ちやすくなる。

ただ、痩せたいというのは結構いろんな人が思っていると思うんですけど、痩せたいと思って痩せられる人と、痩せられない人がいるんですね。で、痩せられない場合は、「来るべき時代のために、私は脂肪を蓄えて備えてるんだ」と思っていただいたらいいと思います。

食べ物が手に入らないという時代が来たときに、脂肪が私たちを助けてくれます。食べ物が喉から入ってこなくても、体の中に蓄えている脂肪を燃焼させることで、私たちは生きてゆくことができるんですね。

完全に霞を食って生きる状態、プラーナを食べて生きている状態、宇宙子を補給して生きている状態にまで至っていなくても、脂肪があれば生きてゆくことができるんです。

私も自分のお腹を見て「はぁー」とため息をついてきたんですけれども、あまり脂肪さんを目の敵のように思うのも良くないなと思いました。

「すべてのものには存在価値がある」と言われていますけれども、例えば人間で言えば、「どうしてあんな人が生きているんだろう」という人も、生かされているからには、神々の側から観てその人は生きている価値がある。それと同じように、私たちの体の中の脂肪さんにも存在意義がある。

例えば、がんになった人が、がん細胞と仲良くなって、がんは完治していないけれども、何の症状も出ないで過ごしていますよという方もいらっしゃる。もしかしたら、この中にもいらっしゃるかもしれないんですけれども、がんになって完治すればそれに越したことはないんですけれども、でも完治しなくても、がん細胞さんと仲良く、同じ体の中で共存して生きてゆくというやり方、考え方もあります。

そのように私たち、これから――今までもやってきたと思うんですけど――これからますます心を広くして生きてゆく必要があると思っております。

日本の人々の動きを見ていると、すぐに人の批判をしたり、揚げ足をとったりという動向が、10年前、20年前、30年前、40年前、50年前と比較して見てゆくと、人をすぐ責めるような方向にどんどんなっていって、人々の心に余裕がないような、そういう状態になっています。

それはもちろん、インターネットが普及したということで、今まで声を上げることができなかった一般大衆の人たちが、自分の考えを世間に述べ伝える機会ができたという部分も影響していると思います。

でも、心が狭い状態というのは、やっぱり神さまのみ心にかなわない精神状態だと思いますので、『人類即神也の宣言文』の中にあるように、「この地球上に生ずるいかなる出来事も、人間の所業も、すべてが神聖復活に至る途中の出来事なんだ」というふうに観て、すべてを愛しながら、赦しながら観てゆくような、そういう意識の使い方をしてゆきたいと思っております。

こういう話をしていると、やっぱり今日の話の冒頭で出てきた、自然環境との関係、その向き合い方というのも、意識を整えなきゃいけない大切な部分であると思っています。

暑ければ暑いで文句を言い、寒ければ寒いで文句を言い、強い風が吹いたら文句を言い、強い雨が降ったら文句を言い、大雪が降ったら文句を言い、というような精神状態も、やはり神聖の観点から外れた意識の使い方だと思います。

世間の人としゃべるときに、「嫌な雨ですね」なんて言われたら適当に合わせておいていいと思います。でも心の中では、「雨さん、ありがとう」と思っているような、そういうやり方でいい。

しかし、自分が雨に感謝しているからといって、雨に感謝できない人に感謝を強要するというのは、またこれも神聖の意識のあり方から外れています。ですから、感謝ができない人にはそれに合わせて対応してあげるということも、また必要なことです。

そうでありながら、心の中はブレることなく、「雨さん、ありがとう」「風さん、ありがとう」という感謝の気持ちをもって過ごす。また大きな地震が来たら「大地さん、ありがとう」「地球さん、ありがとう」という気持ちを忘れない私たちでありたいなと思っています。

油断すると、ついつい不平不満不足を口にしがちですものね。なので、私たちはいつもいつも、守護霊さまの懐の中に入り込むような意識の使い方を忘れないように過ごしてゆけたらいいんじゃないかなと思っております。

いつも私ばっかりしゃべっているんですけど、どなたか、しゃべってもいいよという方いらっしゃいます?体験でも何でもいいんですけれど。自分からは手を挙げづらいですよね。じゃあ、ご質問のある方はいますか?

ちょっと待ってくださいね。今、私の画面に49人映っているんですけど、その後ろに8人ぐらいいらっしゃいますね。マイクを自分でオンにできるようにしますね。そうすれば私が見えなくてもしゃべれますよね。はい、これでご自分のマイクをオンにできるようになっておりますので、どうぞ。

【篠田さん】

福岡県の篠田淳一と申します。お世話になります。質問で大丈夫ですか?

【斉藤】

もちろん。

【篠田さん】

いつも、前からいただいた「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」とかを心がけて唱えるようにしています。「守護霊さま、ありがとうございます。守護神さま、ありがとうございます」もやってます。僕は結構「五井先生、ありがとうございます」のほうが言いやすいので、今もやっているんですけども。

このコツとしては、忘れたときとかにちょっと把われとかが出てきたりするんですけども、変化の途中で大体どんなような心の変化というのは出てくるんですか?今、結構安心感というのは出てきたんですよね。
(※忘れても守護霊が代わりに祈っています!)

あと一つ。「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」と思っているときに、自分の肉体ではそうは思えないので、神さまの視座、神さまから見たら「この世の中すべては完璧ですよね、欠けたるものなし、大成就なんだけど」というような感じで今唱えています。何かアドバイスいただければありがたいなと思って手を挙げました。

【斉藤】

えっとですね、こういう感謝の毎日を過ごしていて、どういうふうな変化が起こってくるのかしら?という、そういうことだと思うんですけれども、これは本当に人によって違うから一概に言えなくて、私の体験談でしかお話しできないんですけれども。

私が経験したのは、今、篠田さんがおっしゃった安心感というのももちろんありました。

私の場合だと、「ありがたい」と思っていないところがスタート地点だったので、篠田さんよりレベルのかなり低いところからスタートしていたと思います。ありがたくないのに「ありがとう」というところからスタートして、3年ぐらいで、特に「ありがとう」と思わないのに、「ありがたいな」と思っている自分を見つけた段階がありました。それが最初。

で、その感謝の対象が広がってゆくという経験がありました。最初は感謝の対象って、ある特定の、例えば守護霊さまなら守護霊さまとか、嫌いな人なら嫌いな人とか、そういう特定の感謝の対象に対しての感謝だったのが、特に意識していない対象に対しても「ありがたいな」という気持ちが起こってくるようになりました。

そういう小さな体験の積み重ねで、何年も何年も何年も過ぎて、私が気づいたことがあったんです。それは、自分の思っていることが、守護霊さまが思っていることと一致している。自分の口から自然に出た言葉が、守護霊さまの言葉と一致している。自分の行動、行い、振る舞いが、守護霊さまが望まれていることと一致しているという、確信を持つ小さな体験を重ねるときがありました。

それは、実際の話として2020年を超えてからのことです。そうすると、そういう状況を体験して思ったことは、「守護霊さまって、全く一つになっていらっしゃってくださるんだな」という実感でした。

もっと先へ行くと、今年の1月から『神聖の眼で世界を見つめる日』という土曜夜の特別プログラムがあるんですけど、そのタイトルのように「神聖の視座って、こういうことなんだな」という観点を持てる時間が増えました。そうした時間がここ数年で、どんどんどんどんハッキリとしたものになってきております。

私はまだ完成形には到達していないんです。未だ道の途中なんですね。篠田さんと同じです。

以前の勉強会で、海から1キロぐらい離れた駅から海岸線を目指して歩いてゆくとこうなる、というお話をしたんですけど、実際にそのお話で出した土地の名前は、神奈川県の逗子駅でした。

逗子駅を出て商店街を歩いて、ちょっと左へ曲がって、すぐに右折する道があるんですけど、右折すると住宅街に入ります。そこから一本道で、太平洋の逗子海岸へ出るんですね。

その道をずっとテクテクと歩いていると、何百メートルの地点でどうなるとハッキリ言えないんですけど、かすかに潮の香りがしてくる。もっと先へ歩いてゆくと、どんどんどんどんその潮の香りがハッキリとした香りになってくる。さらに歩みを進めると、遠くに海がちらっと見えてくる。もっと近づくと、「もうそこに海があるね」とハッキリ分かる。

さらに歩いてゆくと、海岸線沿いに国道139号線が通っているんですけれども、その139号線の下をくぐって、砂浜、いわゆる海岸線へたどり着くんです。

守護霊・守護神と一体になるとか、神聖復活をするということがどういうことなのか?というところで、私はこの喩えをよく使うんです。

海がどういうものかというのを、海が見えないところにいる人は分からない。だけど海に向かって歩いてゆけば、最初は潮の香りという形で海を感じ、もっと歩いてゆけば、自分の眼の前に海が広がる。「これが海なんだ」「これが神聖なんだ」「これが守護霊・守護神と一つの心なんだ」という状態。

個人差があるので一概に言えないですけど、みんな、神聖の大海原への船出にこれから向かおうとしている、もしくはもうすでに海へ出ているという、そういう状態の時代なんだと思っております。篠田さん、こんな感じでよろしゅうございましょうか?

【篠田さん】

ありがとうございます。神我一体と神聖復活――完全に復活したのが神我一体ですよね。その状態というのが空(くう)の状態ですよね。五井先生のような状態ということですか?

【斉藤】

言葉が違うというのは、その状態を観る位置が違うというふうに理解されたらいいんじゃないかと思います。例えば「悟りを開く」って言葉も同じだと思うんです。そういう意味で言えば、「神聖復活」も同じ、「神我一体」も同じ。だけど、それは観る角度が違うから、違う言葉での表現になる。

【篠田さん】

ありがとうございます。頑張ってやってゆきます。よろしくお願いします。もう一つだけ。結局、五井先生は、神我一体になったときに、霊的力というか、そういう悟りの状態と霊的な能力というのは別物だよとおっしゃってあると思うんですよね。

悟っても霊的力のない人もいるかもしれないし、という感じで、そういうような感じでいいんですかね?霊的能力というのは与えられるもので、自分から求めてゆくものじゃないということですよね。

【斉藤】

それでいいと思います。というのは、五井先生のお話の中で、多分一般の会員にはお話をしていなくて、すぐ近くにいた斎藤秀雄さんにはお話していたことの中に、仏教の六神通の話を喩えに出して、いろいろ見えないものが見えるだとか、聞こえない音が聞こえるだとか、水の上を歩けるだとか、そういう能力の先、もっと最高の通力として、『漏尽通(ろじんつう)』という言葉を五井先生は斎藤秀雄さんに教えられたんですね。

この漏尽通というのは、神の心を自らの心とし、自分そのものが神と全く一体化した状態で生きている状態。自然と語った言葉が神の言葉、自然と行った行為が神さまのみ心にかなった行為。それが一番最高の通力の発露した状態なんだよ、というふうに斎藤秀雄さんに説明されていました。

なんで五井先生が斎藤秀雄さんにこの話をしたかというと、周りに村田正雄さんとか、勝山さんとかっていたのかな――私は存じ上げないんですけど――霊能力がものすごい人たちが何人かいたんだそうです。そういう人たちと斎藤秀雄さんは一緒に活動していて、自分には全然そういう力が出てこないというので、五井先生に相談をしたんだそうです。で、「そんなのなくたっていいんだよ」とおっしゃった。そういうことに対する把われを斎藤秀雄さんの心から取っ払っておいて、後から霊能力を与えた。

【篠田さん】

分かりました。大変参考になりました。すみません、お時間いただいて。皆さま、どうもありがとうございます。感謝です。

【斉藤】

神我一体、悟りを開くとか、神聖復活とかいうことと、霊能力だとか超能力ということが、どうしても一緒くたのように思えてしまうことが、もしも皆さんの中でもありましたら、そういう力は、先ほど篠田さんがおっしゃったように、与えられるものであって、望むものじゃないんだという認識の仕方をしていさえすれば、私たちは絶対に間違った道に入り込まないと思います。五井先生が残された大きな道の真ん中を堂々と歩いてゆけるということです。

見えなくたって構わない。聞こえなくたって構わない。だけど、「私が思っていることは守護霊・守護神と一つのことであり、私が語る言葉は守護霊・守護神と一つの言葉であり、私が行い表わす行為は守護霊・守護神と一つの行為なんだ」という自覚を深める段階に、私たちは今来ているんだと思います。

もちろん、自覚できないと思われる方もいらっしゃるかもしれませんけれど、例えば、真宗の昔の田舎のおじいさま、おばあさまみたいな方で悟った人、妙好人(みょうこうにん)のような生き方もあるので、ハッキリ自覚できないからダメだということもありません。

しかし、自覚できるようになると、神聖の力というのは、ますます自分の想念、言動、行為にハッキリ強く現われてきます。他人に「今、私は神通力を発揮しているのよ」なんて言わなくたって、ただ自分が見ているだけで、その眼力を通して神聖のエネルギーを与えている、ただ語っているだけで神聖の息吹を発しているという、そういう状態に私たちは自然となってゆくように、五井の大神さまは導いてくださっております。

その導くというのは、もちろん五井先生直々もありますけれど、普段の導きは守護霊・守護神が担当しています。守護霊・守護神というのは、五井の大神さまという、大きな円光の中の一つ一つの細胞みたいな存在です。五井先生と守護霊・守護神というのは離れていないんです。一体なんですね。

そうした神霊の働きが五井の大神から出てきて、例えば斉藤雅晴を担当している守護霊、古賀生栄を担当している守護霊というふうになっている。守護霊・守護神を深く観察してゆくと、すべては五井の大神さまにたどり着きます。

なので、私たちは、何が起こっても不安、恐怖することもなく、何があってもなくても「ありがたいな、ありがたいな」と思って生きる練習をしているだけで、いざ事が起こったときに、「こうすればいい」「こうしよう」というように、無限の叡智・智慧が湧いてきます。それでもって周りの人たちを助けるんです。救うんです。

普段はなんてことのない普通のおじさん、おばさん、普通のおじいちゃま、おばあちゃま。だけど、何かが起こったときに、私たちには超人的な力が発動します。一人の体で、二人分、三人分、四人分ぐらいは朝飯前です。人によっては、五人分、十人分の力を発揮して動くときが来ます。

歩けないわと思っている人が歩けるようになるかもしれない。食べ物が手に入らなくてどうしようと思っても、生きられるようになる。飢えて飢えてしょうがないという人に、自分の持っている食べ物を与えるかもしれない。「ひもじさを感じないようにするにはね、こういうふうにしたらいいのよ」って教えて差し上げるかもしれない。空中からおにぎりを取り出して食べさせるかもしれない。

それは全部、守護霊・守護神さまがうまく私たちの体を使ってやってくださいます。だから、私心でもって、肉体の頭で、「どうしよう、こうしよう」と思わないことが一番いいことです。

「お任せの生き方」とか、「全託の生き方をするんだよ」ともう何十年も言われてきていますけど、本当にお任せ(全託)をすると、守護霊・守護神と一つになって働く私たちがここに現れます。もう今こうやってお話を聞いていて、そうなっている方もいらっしゃいますよね。

「そうだ」とうなずくのが恥ずかしいかもしれないですけれども、恥ずかしいと思うこともエゴ(自我)ですから、恥ずかしいという想いもいらないんです、本当は……。

「自分が、自分の、自分で、自分に」という「自分、自分、自分、自分」という想い、それは余計なものだって、私、いつも奥から言われるんです。

その余計なものが外れれば外れるほど、手放せば手放すほど……、言葉を変えれば、守護霊さまに明け渡せば明け渡すほど、消えてゆく姿にしていただけばいただくほど、私たちは守護霊・守護神とぴったり一つになった、神そのものの言葉、想念、行為を表わす存在として生きてゆけます。

私、勉強会に出ている方全員が、もうこの1、2年で本当に神我一体になって、本当にそういう助けが必要なときに働ける、五井先生の化身・分身、小さな五井先生、ミニ五井先生として働けたら素晴らしいなと思っておりますので、よろしくお願いします。

それでは最後に、神聖復活の印を一回組んで終わりにしたいと思います。

<神聖復活の印を一回>

ありがとうございます。さっきのお話の中で一つだけ言っていなかったかもしれないので、補足をしておきます。

六神通の中の漏尽通について、五井先生がおっしゃっていたお話の中に、とても大切なお話があります。

「『消えてゆく姿で世界平和の祈り』をコツコツコツコツとやりつづけることこそが、最高の通力である漏尽通を開発するための一番の近道なんだよ」というお話がありました。

だから、私たちは今さら新しいことをやるとか、そういうことじゃないんですね。『やりつづけてきたことを極める』というところを目指してゆくということです。

それでは、本日の勉強会はこれで終わりにします。次回は『9月19日(土)』になります。それでは皆さまのマイクをオンにします。ありがとうございました。

<Byebye タイム>

ありがとうございました。ありがとうございました。それでは本日の勉強会、これで終わりにいたします。ありがとうございました。

以上