世界人類が平和でありますように

神聖で繋がり合う人々

2024年3月23日(土) 動画による祈りの会の詳細な内容

240323-動画による祈りの会-由佳先生・真妃先生・里香先生

【お三方】

皆様、おはようございます。

【由佳先生】

本日も動画による祈りの会にご参加いただきまして、まことにありがとうございます。今日は久しぶりに3人で一緒に参加させていただきます。

最近、私達がすごく大事にしているのは、2024年というこの大事な時期の中で、改めて白光の素晴らしい教えと神聖という意識を、私達ひとりひとりが見直しながら、もっと進化させてゆくということです。

それは、神聖の螺旋階段をどんどんどんどん上がっていく意識を持ちながら、この一年をしっかり2025年に向けて歩んでゆくことで、ひとりひとりが自分の神聖をより意識し自覚して、またそれを実感しながら、一つ一つの教えを改めて確認しながら登ってゆけたらと思っております。

また今日は、特に『我即神也』という教えを、神聖の意識で見直して行なってまいります。我即神也の宣言と印も皆様とご一緒に、久しぶりに行なってまいりますので、本日もどうぞよろしくお願いいたします。

では、世界平和の祈りから始めます。

<世界平和の祈り>

【由佳先生】

ありがとうございました。では、メインプログラムの我即神也を行なってまいります。

今、私達は、自分達ひとりひとりの中に素晴らしい神聖があり、すべての生きとし生けるものの中にも神聖があるという究極の真理が、当然のように意識の中に入っています。

その背景にはやはり、我即神也をしっかり読み続け、印を組み続けてきた時代があったからこそではないかと思います。

その『我即神也』によって、今の私達は「自分は何者なのか」の真髄をしっかりと掴んでいます。自分というものは、思考の蓄積、想いの癖、パターン、それに基づいた常識で造られた肉体の私達ではないということを含めてです。

今の私達は、「本来の私は神そのものである」という真理を、我即神也の宣言と印の蓄積によってしっかりと身に修め、私達は神聖の意識にスッと入れていると思っております。

そんな今だからこそ、神聖を自分の中に感じている私達が、改めて神聖の立ち位置から我即神也の意識をもう一段階深めてゆければと思っています。真妃先生、よろしくお願いいたします。

【真妃先生】

皆様、こんにちは。それでは、今日の特別プログラム『我即神也』に入ってまいります。流れとしましては、最初に白光のホームページの『白光真宏会について』にマウスを合わせ、そこで表示されている『教え』というリンクを開いたページの中に、【2. 「我即神也(われそくかみなり)」と「人類即神也(じんるいそくかみなり)」の宣言文と印(いん)】という項目があり、そこに『我即神也の宣言文について.PDF』と書いた青いボタンがあります。

本日は、そのPDFファイルの中で昌美先生が解説してくださっている文章を抜粋しながら、私が読ませていただきます。

その後に、里香先生にバトンタッチをして、皆様と共に我即神也の言霊をご一緒に、何度も何度も唱えて、その後に印を組むという時間を取ってまいります。

今から昌美先生がお書きくださった我即神也の宣言文についてのご法話を読みますので、心静かにリラックスしながら耳を傾けてください。

<『我即神也の宣言文について』の文章 抜粋読み上げ>

<我即神也の宣言文について 西園寺昌美>

宣言文を唱えると、前生の因縁が小さく消される

(前略)この我即神也の宣言文は、人に宣言すべき、そして人に強制すべき言葉ではないのです。あくまでも自分自身に語りかけ、本心に強く訴えかけ、魂に向かって 宣言するものです。

この宣言文を繰り返し、繰り返し唱えつづけることにより、前生の因縁は大難が小難に変わります。そして前生の因縁が運命と現われて消えてゆく時に起こる姿が限りなく小さく小さくなるのです。苦悩は小さく消え去ってゆくのです。なぜならば、我即神也の真理を魂に刻み込むことによって、前生の因縁に振り回されたり、把われたり、恐怖したりする心が薄らいでゆくからです。

宣言文の言葉そのものが真理の光であり、パワーであり、エネルギーそのものであるから、それらの言葉が持つ光、パワー、エネルギーが因縁をことごとく洗い浄め、本来ならば、前生の因縁として現象面に現われてくるはずの消えてゆく姿さえも、現われずに消え失せてしまうのです。

自分自身に、自分は本来神である、我即神也という真理をインプットすることは、素晴らしい相乗効果を発揮してゆくのです。

神の言葉、想念、行為の中には二元対立がない

神は、単純に言えば、自分の中に初めから存在しているものなのです。そして自分の中に初めからあるものは、もちろん人の中にも初めから存在しているのです。ただ、誰も気がつかないだけのことです。忘れてしまって、思い出せないだけのことです。それを想い起こすために、何回も何回も自らに真理の言葉を語り聞かせ、納得させてゆくのです。(後略)

(前略)私たちは、この神の大調和を現わすために、この世に来ているのです。この肉体の上に、言葉、想念、行為を通して、神の姿、崇高にして神々(こうごう)しく慈愛に満ち溢れた神の姿を現わすために、この世に天降(あまくだ)っているのです。人類一人一人は、この神の姿を顕現させてゆくための大天命を背負って生きているわけですから、それら無限なるもののすべては、もともと自分の中に存在しているのです。今生において神の姿を顕すために、自分の肉体そのものを神にまで高め上げ、昇華するために、今生にてさまざまなことを学び取るのです。

本来、人間の中には、成功も失敗も、優劣も、善悪もないのです。神の世界は、大調和一元の世界、すべてが完全円満なる世界です。

今生における不幸、苦悩はすべて二元対立より発しています。この二元対立を超えたところに大調和、天地一体、神人一如、我即神也の輝かしい世界が展(ひら)けているのです。

私たちは一刻も早く、この二元対立の想念の世界を超えなければならないのです。自分自身の中にある二元対立の想念こそがすべての不幸の元凶です。自分の中にある対立の感情こそが差別を生み出してゆくのです。人間を真理より外れさせ、優劣、勝負、幸・不幸、成功・失敗の二元対立の世界、業生の世界に引きずり落としてしまうのです。

そのために、宣言文の次の部分で、『即ち、神の言葉、神の想念、神の行為とは、あふれ出る、無限なる愛、無限なる叡智、無限なる歓喜、無限なる幸せ、無限なる感謝、無限なる生命、無限なる健康、無限なる光、無限なるエネルギー、無限なるパワー、無限なる成功、無限なる供給……そのものである。それのみである』と説かれているのです。

この真意はどこにあるのかというと、神の言葉、神の想念、神の行為の中には、二元対立がまったく存在していないということです。故に、言葉も、想念も、行為もすべて大調和、大進化をもたらすことのみ。そこには不幸も、不調和も、失敗も、病も、闘争も、挫折も、孤独も、苦悩も、悲惨も、冷酷も、殺意もまったくない。光一元の世界からあふれ出てくる言葉、想念、行為は、無限なるものすべて……であるというのです。

“我即神也”を繰り返し唱えよう

私たちは、常にこの神の大み心である、無限なるすべてに心を向け、宇宙神に心を合わせるべく、自らに“我即神也”と宣言することによって、魂に、その真理が深く刻まれるのです。その宣言を何十回、何百回、何千回、何万回繰り返すたびに、私たちの魂の世界は、我即神也そのものの大調和に自然に調ってゆくのです。(後略)

(前略)(この宣言文の)最後において、『人が自分を見て、「吾は神を見たる」と、思わず思わせるだけの自分を磨き高め上げ、神そのものとなるのである。私を見たものは、即ち神を見たのである。私は光輝き、人類に、いと高き神の無限なる愛を放ちつづけるのである。』と結ばれています。

“我即神也”を“南無阿弥陀仏”のように、我即神也、我即神也、我即神也……と何万回と自分自身に宣言し、語りかけると、自我はまったく取れ、自然法爾(じねんほうに)に生きることができるようになります。そうすると、自分自身が他と何も比較することがなくなり、他のすることを何でも受け入れ、赦せるようになり、まったく二元対立が生じなくなるのです。いつも穏やかで、愛に満ちていて、人を責めたり、裁いたり、見下したりせず、いかなる人と接しようと、その人の生命の尊厳を認め、褒め称えることができるのです。

そのため、周りの誰もが安心して、自然体に振る舞うことができるようになるのです。自分の欠点を見られようが、弱点を暴かれようが、自分の汚点を見透(みす)かされようが、そんなことには一切関係なく、何一つ恐れることもなく、不安に思うこともなく、安心して、あるがままの自分を表わすことができるのです。

そういう姿は、人をして「吾は神を見たる」と、思わず思わせてしまうのです。二元対立をまったく超えてしまっているので、そこに一切の隔たりも、差別も、分離もなく、いつも調和の状態に保つことができるのです。そんな状態を常につくり出しているのは、神そのものの姿に等しいのです。また、そうなるよう努力し、精進し、磨き高め上げてゆくのであります。

この我即神也の宣言文を唱える人たちは、自分の目的がそこにあることに気づいている人たちです。自分の今生における目的達成のために、この中に書かれている真理そのものを自分の内に顕現しようと限りなく想いつづけている人たちです。常に高い高いミッションに向かって精進している人々なのであります。

神のようになるためには、常に神になろうとする心が働かなければ、決して神のようになるものではありません。その点、我即神也の真理は、私たちが日常生活を通して、見事に達成できる事柄なのです。理屈をこねず、素直に信じてやることこそ尊いことなのです。自分自身に対して、ただひたすら“我即神也”を唱名念仏のように唱えつづけているだけで、言葉の持つ素晴らしい威力により、必ずそれは成るのです。そのため、「私を見たものは、即ち神を見たのである」という真実が現実に現われはじめるのです。神の世界、神の姿とは、愛のみ、光のみ、大調和のみ。そこに一切の闘争も、戦争も、差別も、分裂もない世界。すべてが光輝き、すべてが一つに融け合い、すべての存在を慈しみ、尊び、大切にしている世界であります。

“我即神也”を何万回と宣言していくうちに、いつの間にか、「私は光輝き、人類に、いと高き神の無限なる愛を放ちつづける」のです。

(2000年8月)西園寺昌美著 『神人誕生』より

【真妃先生】

ありがとうございました。

【里香先生】

皆様、改めまして、よろしくお願いいたします。真妃先生が朗読してくださった昌美先生の我即神也についてのお話を聴いて、皆様方も響きとして「そうだ、そうだ」と、魂で納得しながら受け止めておられたのではないかと思います。

ここで、この文章の響きとともに、「我即神也」とはどういうことなのかについて振り返ってみたいと思います。

「我即神也、我即神也、我即神也」と何度も何度も刻印することによって、私達の意識の中に、神そのものの意識が開いてきますが、「我即神也」の「我」というのはいくつかあり、一つではありません。

「我」のなかには、個人の「我」というような感じ方もあれば、大我、小我のように同じ「我」でも、自分がどこにその立ち位置を置くかによって、奥深い真我なのか、表面の自我なのか、その置き所によって働きが変わってくるわけです。

例えば「西園寺里香即神也」のように、自分の名前を入れる場合ですと、「西園寺里香」と言った瞬間に守護霊様・守護神様が反応します。

守護霊様・守護神様、ほか、皆様方の背後にいらっしゃる神々様は、その個人を守るための働きを持っておられる。ですから、自分が苦しいときなどに、「西園寺里香即神也・西園寺里香即神也・西園寺里香即神也」とやりはじめると、途端に神々様は皆様方が唱名をしたその響きに反応して、その人間にまつわる業を本当に祓って、消えてゆく姿を浄め、守り導いてくださいます。

ですから自分の名前で「西園寺里香即神也」の唱名を行なったり、「我即神也」の言霊で唱名を行なったりした時の響きというのは、個人の性格や健康状態などの個にまつわるすべてを超えて、「我(西園寺里香)、我(西園寺里香)、我(西園寺里香)…」と言った時には、もっと奥深―い自分の霊的な働き、神聖なる働きをしている自分になります。

そこでは、個が消え横のみんなと繋がり、一つに繋がっているのです。(その時には)自分個人が消えて、もっと奥深い霊的な働きの「我即神也」が表面化しています。

それは、守護霊様・守護神様を通しての働きで、本当に高い神々様と繋がり合って、我々の器を通して人類へ向けた働き、世界を平和に導く働き、神聖復活した神の働きとしての「我・即・神・也」という大きな波に変わってゆきます。

自分の名前を入れて「西園寺里香即神也・西園寺里香即神也」と言ったときには、本当に暖かいやさしい波動で包んでくださり、「私は神々様によって守られている」という実感を感じ取ることができます。「我即神也」と言った場合は、もっと奥深くの神そのものが働いていることが感じ取ることができます。

この2種類の唱名は、“我”と“神”が本当に一つの響きとなり、神そのもののバイブレーションとなって、私達が神々様と共に働いてゆくことになりますので、今回は7セット、「我即神也」の行を行なってまいります。

先ず初めに宣言文を読んでから、最初の3回はご自身の名前を入れての「○○即神也」を行ないます。49回唱名をした後に1回「我即神也の印」を組みます。

では、始めてまいりますけれども、まずゆっくり宣言文を読んでいきます。

<我即神也の宣言文>

『我即神也』

私が語る言葉は、神そのものの言葉であり、私が発する想念は、神そのものの想念であり、私が表わす行為は、神そのものの行為である。

即ち、神の言葉、神の想念、神の行為とは、あふれ出る、無限なる愛、無限なる叡智、無限なる歓喜、無限なる幸せ、無限なる感謝、無限なる生命(いのち)、無限なる健康、無限なる光、無限なるエネルギー、無限なるパワー、無限なる成功、無限なる供給……そのものである。それのみである。

故に、我即神也、私は神そのものを語り、念じ、行為するのである。

人が自分を見て、「吾(われ)は神を見たる」と、思わず思わせるだけの自分を磨き高め上げ、神そのものとなるのである。

私を見たものは、即ち神を見たのである。私は光輝き、人類に、いと高き神の無限なる愛を放ちつづけるのである。

【里香先生】

はい、ありがとうございます。それでは、ご自身の名前を入れての「即神也」49回を行なってまいります。

<個人名即神也 3セット>

<我即神也 4セット>

各セットの終わりに「我即神也の印」を1回

【真妃先生】

それでは、ご一緒に神聖復活の印を一回組みます。組んだ後に静かな時間を取り、本当に自分の中の神聖が復活すると同時に、人類すべての神聖が復活することをイメージしてください。よろしくお願いいたします。

<神聖復活の印を1回>

【真妃先生】

はい。ありがとうございました。今日の我即神也のプログラム、皆様方、いかがでしたでしょうか?私は、「私達は本来、いかなる存在なのか?」ということに想いを馳せました。

私達は過去世から現在に至る誤てる想念で、消えてゆく姿という幻想、雲のように自分の目の前を過ぎ去ってゆく幻想を真実だと思ってきました。それを自分と思うのか、我即神也という言葉で表現されているように、神の光を自身の身に修め、それをこの世の中に顕現してゆこうとしている存在が自分だと思うのかによって、この世の中の見え方がまったく変わってきます。

私達ひとりひとりが二元対立の世界で生きるのか?対立のない光そのものの神の世界で生きるのか?

それは、私達がどこに軸足を置き日常生活を送るのかによって、まったく同じ世界を生きているようでありながら、まったく違う世界が目の前に広がるということなのです。

「あなた達の日々の選択・決断によって未来が変わってゆく」と昌美先生がおっしゃっておられるように、今この瞬間、自分の目の前に何かが起きた時に、消えてゆく姿を本質だと思うのか?我即神也が本質だと思うのか?

「私が語る言葉は神そのものの言葉である」という想いの中で言葉を発するのか?それとも消えてゆく姿を当然だと認めて、肉体の波動の粗い波の中で感情想念から産まれてくる言葉を使うのか?

その選択・決断・実行によって、私達がこの瞬間に築く次の未来もまったく変わってまいります。

また、昌美先生が書かれていたように、この肉体波動の中にドップリと嵌(は)まって生きていますと、私達はどうしても「自分達は本来神聖なんだ」ということを忘れてしまう、見失ってしまう。

だからこそこうやって時間を作って、「私達は何者なのか?」ということを、宣言文や「我即神也」の唱名を通して、何度も何度も繰り返し自分自身に思い出させるのです。

唱名を通して何度も何度も、「私達は消えてゆく姿ではなくて、我即神也(神そのもの)なのだ」ということを思い出させることにより、日常生活での日々の積み重ねが、神そのものの意識で神聖復活の世界を築いてゆくことになるのだということを、今回の皆様方とのお時間を通して、感じることができましたし、皆様方にもそういうことを感じていただけたらすごく嬉しいなあというふうに思いました。

【里香先生】

はい、ありがとうございます。皆様、ご参加ありがとうございました。

私は今回、「我々はいろんな“我”を持っていていいんだ」ということを感じました。どの我も本当に愛おしいし、現れてゆくものを消そうとしている我もすごく愛おしいし、大切な役割だし、“我”の響きをもって、唱名をもって力強く宇宙神と繋がって働いている我というのも本当に愛おしい。

その我をとっても、どんな状況であっても、我としての役割があり、とても大切で尊い存在なのだなということを思いました。

ですから、苦しんでいたり、自分を卑下したり、そういう想いは一切なくて、「これも一つの与えていただいている役割なんだな、この役割も本当にありがたい我なんだなあ」ということを、自分に対しても思いましたし、会員の皆様に対しても、ありがたいお役割をしていただいてるということを感じました。

【由佳先生】

私は、昌美先生のお話や里香先生が言ってくださった「西園寺由佳即神也」の時のお働きと、「我即」をいう時のそれぞれのお働きのお話にあったように、守護霊様・守護神様の温かさを感じながら「西園寺由佳即神也」を言わせていただきましたし、我即神也は本当に宇宙とすべてが一つであるという我の視点、神聖なるすべてと一体である自分を感じながら行なっていました。

また、久しぶりに数えながらの唱名をしていて、「昔は本当によく皆様とやっていたなあ」と思い、やっぱり行の蓄積を感じましたし、「ウー」という音魂の印を組むことで、私達は3人だったので、その響き合いを体験して、改めて呼吸法の一体感とはまた違う波動の響きの中で組む我即神也の印などは、やっぱり螺旋階段を登りながら常に進化していて、一つ一つがまた新たな視点で組ませていただける、唱名をさせていただける、その喜びを今日は感じさせていただきました。ありがとうございます。

あと、伝道グループからの講師限定の発信ですが、講師練成会が4月21日に富士聖地に行われます。その申し込みの締め切りが過ぎましたが、最近、お申し込みをしそびれた方から、「まだ間に合いますか?」という問い合わせが何件も入っているということで、伝道の方から、「申し込みの締め切り日は過ぎていますが、今からでも充分に間に合いますので、お申し込みし忘れた方や、今からでも申し込めるなら申し込もうと思ってくださった方は、ぜひぜひお申し込みください」とのことです。以上、伝道グループからの伝言をお伝えさせていただきました。

【真妃先生】

2025年を迎える前の最後の講師錬成会ということで、白光の教えを、長年日常の中で行なってくださっている皆様方と、改めて富士聖地という場に集まり、来年に向けた地固めができることは、すごく尊い機会だと思いますし、富士聖地に来られない方に対しましても、冊子をお配りいたしますので、同日同時刻にご自宅で同じ行を行なってくださることに心から感謝申し上げたいと思っておりますので、この日の参加が可能な講師の方は、ぜひぜひお申し込みください。ありがとうございました。

それでは、次回は4月の第2週、13日土曜日になりますので、また皆様方と動画で繋がれることを楽しみにしております。

【由佳先生・里香先生】

ありがとうございました。

【真妃先生】

最後に五井平和財団からの告知をさせていただきます。五井平和財団は、今月末の3月30日、午後2時から3時半までの講演会を企画しております。

講演会シリーズ『21世紀の価値観』も67回目となりました。この講演会シリーズというのは、これからの未来に必要な価値観を発信してくださっている方々をお招きして、その方々がどういう想いでその活動をなさっているのかということに耳を傾ける、そんなお時間になっています。

今回は、世界の課題解決を映画の力でしてゆくという活動を22年前から行なっておられる関根健次さんという方をお迎えしています。

今年で20周年を迎えられるとおっしゃっておられましたが、彼がこの活動をしようと思ったきっかけは、2週間前にもお話ましたけれども、彼が大学の卒業旅行で行ったガザ地区で出会った一人の少年が、「自分の将来の夢は爆弾を開発する仕事をして、多くのイスラエル兵を殺すことなんだ」という夢を語った、その少年との出会いによって、関根さんは「子供が子供らしい夢を描けるような未来を作りたい」と思われた。つまりそれは、平和な未来というのは、「子供が子供らしい夢を描けるような世界」で、そんな世界を創りたいと思われ、そこから本当に様々な分野でいろんな仕掛けをしてきて、今に至っているという素晴らしい方です。

私も何度も彼に会ったことありますが、彼に会って彼の話を聞きますと、「世界を平和にしたい」というその熱量に触れるだけで、もう心の中が浄まってくるというか、感動で涙が出てくるぐらい素晴らしい方です。

私達は世界平和の祈りを通して世界を幸せにし、平和を創ってゆくというミッションを掲げて活動していますが、こういった素晴らしい人達と手を組んで、みんなが手を取り合い、平和な世界を創ってゆきたいとも思っております。

世の中には、私達と違うミッションを掲げながら、本当に素晴らしい活動をされておられる方々がたくさんおられる中で、そういう人達のことを知ることによって、私達の中に平和を築くための引き出しがたくさんできると思っております。

また彼は、オンラインで映画上映できる仕組みも作っているので、例えば皆様方が地方でお住まいの方々や海外にお住まいの方々も彼のホームページを通じて、世界が抱えている色々な課題について、いろんな人達に知ってもらう機会を作ることができると思いますので、お時間がある方は4月14日までアーカイブ動画も視聴できますので、この際にお申し込みいただき、関根健次さんという素晴らしい日本人の方がこの世の中で、平和のために活動しているんだということを知っていただきたいなと思っております。

日時は、3月30日土曜日、午後2時から3時半で、アーカイブ視聴も可能です。お申し込みは五井平和財団のウェブサイトになっておりますので、ぜひぜひお申込みください。はい、以上になります。

今日も皆様方、ご参加いただきましてありがとうございました。また、4月13日にお目にかかれることを楽しみにしています。ありがとうございます。

以上