皆さま、こんにちは。4月7日、日曜日の勉強会を始めます。始めの画面の一番下に、今日のテーマを書いた言葉があるんですけれども、「世界平和は一人一人の心の中から」と書いてあるんですけど、どこでしたっけね、国連機関、ユネスコの憲章ですかね。それの一番最初の方に、「一人一人の心の中に平和のとりでを築くことが一番大切だ」っていう、同じようなことが書かれていいます。
ここにいらっしゃる方は、「何を今さらそんなこと」って話だと思うんですけど、日常生活の中で、家族や友人、会社の同僚、親戚関係とか、いろんな人との交流の中で、自分の想いの動きをよーく観察していると、心の中の平和を無視した言動行為を、私達は時々していることがあります。
また、テレビや新聞、インターネットなどでいろんなニュースを見る時にあるんですけど、例えば、正義感に照らして、「何をやってるんだろう、あの人たちは?」って思うような、例えば今のイスラエルとパレスチナ、ロシアとウクライナなどの動きを見て、いろいろ何かモヤモヤするような、「何でやめないんだろう」「なんで自分が嫌がることを他人にするんだろう?」って思ってしまうようなことが、ニュースなんかを見ていてあります。
そういうときに、「消えてゆく姿」っていうことを思うんですけれども、何か外に悪いものがある。例えば「誰が○○してるのは消えてゆく姿だ」っていうふうに思ってしまうと、本当の原因が心の中に残ってしまうんですね。残るがために、また違う形で似たようなモヤモヤが後日、自分の心の中に現れて来るっていう繰り返しをしながら、私達は、少しずつ少しずつそれを消化して、それをクリアして、神聖そのものの波動圏に近づいて行ってるんだと思います。
それから、皆様お一人お一人も、自分のこととして過去を振り返っていただくと、5年前の自分、10年前の自分、20年前の自分、30年前の自分と、今ここ、2024年に生きている私達がもう全く別人になっている、もしくは「ちょっとは成長してる」って感じる人もいらっしゃるかもしれません。遅いと感じるかもしれませんけれど、皆さん、確実に成長していると思います。
2025年、来年には、世界中の国々、まずは主要国からだと思うんですけれども、日本という国が、本当に平和の中心の国だっていうふうに、認められる時が来るというふうに言われています。その原動力、「どうして日本が?」っていうことを考えると、特別に立派なことをしてる人じゃなくても、日本人というのは、譲り合う心があったり、思いやり合う心があったりっていうところで、なんていうんですかね、一番心が安定している。世界中にいろんな国民、いろんな民族がいるんですけれども、平均的に心が安定しているっていうことがあるんだと思うんです。
それに加えて今、神聖復活の印を組んでいる人のうち、多分90何%の人が日本国に集中していらっしゃいますので、「日本国は何があっても大丈夫だ」ということも言われてます。
その一方で今、巷のYouTubeなんかで、2025年問題みたいな感じで取り沙汰されているのが、「隕石が落ちるんじゃないか」とか、「津波が起こるんじゃないか」とか、「大地震が起こるんじゃないか」とか言われてますけど、これはもう別に2025年じゃなくても、既に今年もその予兆がありますし、何かが起こることはもう、今の人類の状況を見ると、これは避けられないことだと思うんです。地球人のうちの99.9999999%の人たちが、神聖を発揮しようという発想がそもそもなく、自分の幸せもしくは、自分と自分の近しい人だけの幸せを考えながら生きているからです。
世の中の仕組み、自由主義とか言われてる世界は、競争原理の社会ですから、人よりも上に立つために、勉強とかでも良い成績を取るとか、仕事でも人より良い成果を出すとか、そういう争い合って高め合うっていうのが、今までの世の中だったんで、これは仕方のないことなんですけれども、その一方で今、この2024年の段階で起こっているのは、“神聖がよりハッキリ出ている人たちこそが、本当に幸せに生きられる”という動きが今、静かに表面化してきています。
今ここにいらっしゃる40何人の方の中でも、もう既にそれを体験されて、傍から見たら「あの人は大変ね」って思われるような病気を抱えてらしても、心の底から幸せを感じ、どんなことにも「ありがたいな」って思いながら生きていらっしゃる方がいらっしゃいます。
もう少し、本当にもう少し時間が経つと、世の中のあり方が根底から変わって、神聖を発揮している人が、精神的にも物質的にも、豊かな生活をできる社会に変わってゆきます。そうならなかったら地球は平和にならないからです。
それは理想論とか、机上の空論とかそういう話じゃなくって、もう宇宙の、もう遠い昔からもう永遠の未来までの中で、地球が立派な星になる、地球の人たちが神聖を蘇らせるっていうことはもう決まっていることなんですね。地球が出来たときから決まっている。そのときが本当にもう直前まで来ている。
その直前の世界が今、今年、2024年なんです。25年に完全になるかどうかは、私にはわかんないですけれども、「2025年の変化をきっかけに、世界中に神聖のムーブメントが広がってゆくんじゃないかしら」って思っております。それを支えているのが、今ここにいる私達であり、ここにいないけど、全国で日々祈ったり、印を組んだりしている方々なんだと思っています。
そういう大事な人たち、この地球が本当に変わるという原動力になっている方々は今、共通してもう一段の階段を上がる。もう一段、ステップアップするっていうところに来ています。その課題というのが、「人のせいにしない」ということです。
私自身が“人のせいにする天才”でしたから、それがもう本当に身に染みてよーくわかるんですけれども、「自分は悪くない」「悪いのは、この人だ、あの人だ、どの人だ…」とやる。 例えば、そうですね、会社の人間関係、もしくは家族間、夫婦の間、親子関係、もしかしたらおじいちゃん、おばあちゃんとお孫さんの関係もあるかもしれないですけれども、そういう家族や親しい友達との関係性の間では、特に何て言うんですかね。相手の粗が見えるというか、粗があるように感じやすい。
関係性の薄い人とはものすごく表面的なお付き合いをするから、いいとこを見ようとすれば、いいところにフォーカスして、その人とお付き合いすることができるんですけど、四六時中、顔を突き合わせて過ごしている家族なんかの場合だと、「こういういいところもあるけど、この人こういうところを直してくれたらもっといいのに」とか、悪いところがあるように感じてしまう。
どうして関係性の薄い人にそれを感じることができないで、関係性の濃い人にだけ、それが感じられるのかなっていうことを、この間うちの人と話をしてたんですけれども、やっぱり、他人っていうのが、自分に感じることも同じなんですけど、鏡のように自分の中身を映し出して感じられるような仕組みになっているからだと思うんです。
で、関係性の薄い人っていうのは、鏡と言っても、姿見を遠くから見たような状態で自分の姿を見ているような状態だから、あんまり詳しいところは、例えばここにシミがあるとかないとか、そういうところまでは見えないんですけれども、家族とか親しい友人とか、毎日顔を突き合わせてる会社の同僚や上司、部下とかってなって来ると、より近くで姿見を見るような、どんどん近づいて見るような感じなんで、小さな目立たないホクロがはっきりと見えたり、ちょっとここがくすんでるねとかっていうことが映って見えやすい。だから、粗が見えるというか、感じてしまう。
本当は、相手が何をしようが、相手が何を言おうが関係ないんです、本当は。それは、自分(の中身)を見せてくれるきっかけでしかないんで、人が何をしてこようが関係ない、本当は。
だから、例えば、夫婦の間で、もしくは親子の間で、親しい友達との間で、勤め先での人間関係の中で、「あー、あの人嫌だな」「あの人何だろうな」、そう思ったときに、それは自分の心の中の状態が映ってそう感じていることなんだから、「自分に原因があるんだな」っていうふうに、腹を決めて、覚悟を決めてというか、潔く、気持ちの向ける先を自分の中に向け直すと、守護霊様が教えてくださいます。「ここにあるよ」「こういう性質があるよ」「こういう想いの癖があるよ」「こういう決めつけがあるよ」「こういう把われ、こだわりがあるよ」っていうふうに、守護霊様が教えてくださいます。
守護霊様の導きっていうのは、自分自身の直観とかひらめきって形で現れて来ることもありますし、人間関係の中で、他人の声をとおして、気づかせてくれることもありますし、読んだ本の中にその答えが書いてあるっていう形で気づかせてくださることもありますし、ラジオでもテレビでもそういうところから気づきを得るっていう形もあります。
第一直観を大切にして過ごしていると、「これは守護霊様の導きなんだな。うちの旦那、私に諫言してきたけど、これは守護霊様の言葉なんだな」っていうふうに、普段から第一直観を研ぎ澄ましていると気づくことができます。
私達はこうやって肉体を持って生きていると、ついつい自分をかばう想いの癖があって、例えば、「厳しい話を人から聞かされたら嫌だな」って思うようにできていて、そういう習慣の想いが湧き上がってきます。
よっぽど肝の据わった人だったら、他人が厳しいこと言ってきても、「あ、そっか、自分に至らないところがあったんだな」っていうふうに受け止めることができるんですけど、他人から言われた場合、私達は条件反射の反応で拒絶する癖があります。
私はそれを「エゴさん」って呼んでるんですけれども、エゴさんと折り合いをつけながら、自分の心の中にある本当の事実を認めるっていうことができるようになって来ると、私も100%できてるわけじゃありませんけれども、さっき言ったように、10年前、20年前の自分、5年前の自分と比べて見ると、「その頃よりはできている」っていうふうに客観的に見ることができます。
私たちが乗り越えるべき課題は、やっぱりエゴさんなんです。エゴさんが「神聖復活されたら困る」と思って邪魔してくるんです。自分に立派になられたら、自分の居場所がなくなるんじゃないかと思って必死に抵抗して来るんです。そのように、本当の事実、心の中にある本当の状態を見せないように、気づかせないようにし、そのために自分を守るような想いの動きが出て来る。
そのときに私の経験上、一番効果的なのは、エゴさんを説得しようとか、屈服させようとか、そんな余計なことを何にも考えないで、無言で抱きしめてあげる。自分で自分を抱きしめてあげることです。
言葉でその状態を一言で表現するとしたら、慈愛とか、慈しみの心とか、そういう精神状態になるんだと思うんですけれども、その慈しみの気持ちで、エゴさんを抱きしめてあげる。もう何にも言わなくていい。何もエゴさんに伝える必要もない。自分が慈しみのひびき、波動そのものになっていたら、エゴさんがもし氷のような存在だとしたら溶けてゆきます。氷が水に変わるっていうような状態です。
北風と太陽の話じゃないですけれども、無限なる慈愛、無限なる慈しみの響きそのものに自分の波動を合わせる、チューニングする。その精神状態で抵抗する自分を抱きしめてあげる。
瞑想とか統一行なんかやってるとよーくわかるんですけれども、心の中にいろんな自分がいる。例えば、自分に愛されていない自分と自分を愛していない自分がいる。これは両極端なんですけど、どっちも自分の中にあります。もっとポジティブな言い方するんだったら、自分を愛してる自分と自分に愛されてる自分がいます。両方が存在して自分なんです。(両方の自分がいて自分が成立している)これは手で言ったら、手の平と甲のような関係で、切り離せるものではないんですね。両方あって自分なんです。
把われって一言で言われる状態、私はいつも把われを、こだわりだとか、想い込みだとか、決めつけとか、執着の想いっていうふうに表現してるんですけど、把われの想いがどうして現れるか、どうして起こっているかっていうと、この手の平と裏のような、陰と陽って言い方してもいい、プラスとマイナスって表現してもいいと思うんですけれども、その陰と陽のバランスが崩れたときに、把われの想いが起こって来るんですね。
だから、把われを手放すことができたっていうときには、この陰と陽のバランス、配合がちょうどベストなところで成り立っている状態になっている。その精神状態のときには、自分はそのことに対して、いいとも悪いとも思わない。好きにも嫌いにも傾かない。ニュートラルな自然な状態で見ることができる、関わることができる。そういうときには、把われのない自分になっています。
これは、私は専門家じゃないんで、はっきり断言することもできないですし、偉そうに言うこともできないんですけど、宇宙子波動生命物理学の観点から見ても、プラスの宇宙子、マイナスの宇宙子が絶妙なバランスで成り立って、肉体ができ、精神になり、もしくは大地になり、植物になり、動物になりしている。動物になるには、動物になるだけの精神宇宙子と、物質宇宙子の配合が、植物がそこに現れるためには、植物が現れるなりの配合がある。それが一番調和した状態で、それを表すのにベストな状態であるときに、それがそこに存在する。
(他人に感じた想いを)自分の中に向け直して、自分という存在、自分って一体何なんだというところを探求する。この間メールに「Who am I?」って書きましたけれども、「私は何者なんだろう?」「我は一体どういう存在なのか?」と、自分の心の奥に奥に奥に奥に探求してゆくと、みんなが共通してたどり着くのは、宇宙を作った大いなる智慧、無比絶対なるエネルギーの源泉って言われてるところです。創造主って言い方もできるんだろうし、宇宙神っていう言い方をする宗教もあるでしょうし、いろんな名前で呼ばれてる宇宙の中心、命の大元にみんな帰ってゆきます。
それを私達は「我即神也」という言葉で、表現しておりますけれども、まずは私達が、自分自身の神聖を100%認めることです。
前回の勉強会で話したかもしれないんですけど、人が神聖復活していくプロセスっていうのは、ホップ・ステップ・ジャンプで、信じる・確信する・当然と思う(当然認識をする)です。信じる・確信する・当然認識をするという3段階で深まってゆくんですけれども、まずは信じる。信じて信じて信じて信じて、信じきった、いわゆる信じることを極めたときに、確信の段階に入ります。確信にもレベルがあって、確信を深め深め深め深め、深めてゆくと、「神聖、当たり前、当然だ」って認識できる波動圏があります。そこまで自分を引き上げる。「神聖、当然、当たり前」っていう意識境涯です。ちょっとでも疑っていると、神聖が当たり前の世界へは行けません。
神聖が当たり前の世界へ近づけば近づくほど、私達は自己限定というものが薄れてきます。何事にもおじけづいて臆病に生きていた人が、好奇心とか、チャレンジ精神とかが旺盛になって、できなかったことができるようになったり、わからなかったことがわかるようになったり、今までだったら付き合えなかったようなタイプの人と付き合えるようになったり、いわゆる人間の幅が広がっていく、器が大きくなる。角度を変えて言うと、魂が大きくなるとか、霊体が大きくなるとか、そういう状態になってゆく。
そうなると、お付き合いすることができなかった人たちとお付き合いすることができるようになったり、毛嫌いしてた人たちを毛嫌いしないで受け容れられるようになったり、今までなら「絶対こんなの自分には無理だから」って諦めてたことにチャレンジするようになったり、いろいろな形で、自分の中の可能性を開拓してゆくような、本人は開拓してるっていう気持ちじゃないんだけど、はたから見たら「開拓してるね」って見えるような状態に、みんながなってゆくんだと思います。お互いがお互いを見ても、今きっとそういう状態の人を見ることができると思います。私も今、この画面を見ていて、「この方も、この方も、この方も」って思って見てます。
ここで、白光じゃない方もいらっしゃるんで申し訳ないですけど、五井先生のお話をしたいと思うんですけれども、瀨木庸介さん、2代前の理事長ですね。瀨木さんの出版物、ご著書の中に書いてあった話ではないかと記憶してるんですけれども、昔の宇宙子科学メンバー、宇宙子科学シニアメンバーの方々が何人か集まった場面で、「私達も五井先生のようになれるでしょうかね?」っていう問いを発した方がいたそうです。
それに対して、「できる」っていう方もいれば、「そんなの絶対に無理だ」っていう方もいて話がまとまらなかったんだそうです。そのときに瀨木さんは、「それでは五井先生に聞いてみましょう」といって、何かのお仕事のついでに、お仕事があってお会いしたときに、そのことを五井先生に尋ねたそうです。五井先生のお答えで最初に言われたことは、「できると思えばできるし、できないと思えばできない」だったそうです。その後に瀨木さんが「失礼します」って離れる間際のときに、五井先生がポロっとおっしゃったのは、「皆さんが今の私ぐらいになった頃には、私はもっと立派になってるから、追いつくことはできないだろうね」ってお言葉だったそうです。
また別の話で、いつもそばにいた高橋英雄さんに五井先生がおっしゃったんだと思うんですけれども、これは『如是我聞』に出てますかね、「人間っていうのは、これぐらい立派になったから、もういいっていうところはなくて、どこまでもどこまでも立派になれる存在なんだ」っていうこともおっしゃっていたそうです。
だから私達が今、この2024年現在、神聖復活・神聖復活ってやっていても、神聖復活というゴールがあるようでないんですね。例えば、これぐらいの高さだったのが、これくらいまで上がって、それでゴールかっていったら、全然ゴールじゃなくて、まだ上があるっていう…、どこまで行っても、もっと立派になる余地があるっていうのが、私達人類なんだと思います。
これは、宇宙の大元の理念を表す存在として作られたのが、宇宙のそれぞれの星に住んでいる人類だからです。その宇宙神、宇宙の大元、大生命のすごさ、深さっていうのは、今の私達の頭で考えても、きっともうおよびもつかないようなものなんだと思います。
それは一足飛びに行けるもんではなくって、一つ一つ、一歩一歩、確実に自分を深め、磨き高め上げていくことで近づいてゆく。一つ上がれば、また次の自分のなるべき姿が見え、一つ上がればまた次の自分のあるべき姿が見え…というふうにして、自分を磨いていくことができるんだと思っております。
ええ、ちょっとですね、今日は前回までの反省なんですけど、途中で休憩を少しはさもうと思っております。そうですね、今1時43分だから、50分までちょっと休憩の時間にしたいと思います。お水飲んだり、お茶飲んだり、お手洗い行ったり、どなたかに電話しなきゃいけないとかいろいろあると思いますんで、50分過ぎたらまた始めますんで、ちょっとそれまでの間、休憩時間にしましょう。冒頭のタイトルの画面にしておきますので、お互いに今何してるのかわかんないふうにしますから、どうぞごゆっくりと休憩してください。
《休憩後》
はい、じゃあ始めましょう。先ほど、「人に感じたことを自分に向け直す」という話をしていたときに、「他人が何をしようが、何を言おうが、それは関係ない(自分を犯す何ものにもなり得ない)」という言い方をしました。どうしてそういう言い方をしたかということなんですけれども、それは、相手にそう感じる原因が自分にあるわけで、自分の中にそう思う原因がなかったら、相手が何をしていようが、何を自分に言ってこようが、それによって自分が左右されるものではないからです。
他人の言動行為に自分が左右されているという状態は、自分の中に左右される原因があるわけです。原因が自分の中になければ、他人が何をしても何を言ってきても、柳に風っていうんですか、受け流すことができる。それができるようになるというか、わかるようになるのは、実際にそういうふうに、自分に向け直す練習を何回も何回もしているうちに、それぞれにコツをつかんでゆくんだと思います。
それで「どうしてもあの人のこの部分については注意しなきゃいけない」とか、そういう想いが出たとします。例えばそれは、親が子供に注意するとか、そういう場面でよくあることだと思うんですけど、そのときに、例えば親と子の関係で注意を伝えるとして、自分の心を相手に伝える前に、よーく心を点検して、一切の私心のない状態であるかどうかを観る。
一番わかりやすいのは、左胸に手をあてて脈を確認することです。心臓、左胸じゃなくても、こうやって手首で脈拍を測ってもいいんですけど、心臓の鼓動を確認することです。平常通り、普通通りの鼓動、バクバクバクバクって早く心臓が動いてない場合は言ってもいいと思います。逆に、相手に何か言いたいっていうときに、脈拍を測って心臓がバクバクいってるときは、「やめよう」っていうふうに思った方が無難だと思います。
何十年も祈ってきた方の中には、「心臓をバクバクさせないで人を叱れるようになりなさいよ」って話を覚えてらっしゃる方も多いと思います。心臓がバクバクしているときっていうのは、カルマ、エゴ、業想念と業想念のぶつかり合いの状態になるんですね。でも、自分の中に一切の私心がない、心臓の鼓動も普通の速さで動いている、そういう状態で相手に伝えるべきことを伝えると、それは神々と同じ働きを自分がしている状態になります。
そういう精神状態のときには、後から振り返って「あの人にあんなこと言わなきゃよかった」とか、そういう反省をすることはないと思います。それは、守護霊・守護神方に使われている状態なんですね。私達は、守護霊様の声も聞こえなければ、姿も見えないという人たちがほとんどで、地球のもう本当にほとんどの人が守護霊の姿も見えない、声も聞こえないっていう状態です。それでも「守護霊はいるんだ、守護神はいるんだ」ってことを私達は信じているんですけれども、その守護霊が私達をどういうふうに導くか?
さっきも言いましたけど、ひらめきとか第一直観って形で現れることはもちろんですけれども、周りの人の体を使ってその人に言わせるという導き方があります。それは夫婦関係でも親子間でも、お孫さんとの関係でも、職場の人間関係、近しい友達の間でも言えることです。守護霊が私達を使って喋らせていることがあります。もしくは守護神様かもしれない。自分が・自分の・自分で・自分を・自分に、自分・自分・自分・自分・自分っていうこの自分って想いがなくなる(薄くなる)と、私達は守護霊・守護神・神々と同化しますから、神々が使う器になります。
そういう状態の人は、「私がしてやった」とか、「俺が伝えた」とか、そんな自分の手柄にしようとかいう発想がそもそも無くなります。自然と使われている状態になるんです。自然と使われてるときは、それ(エゴ)を掴まないんです。掴まないってことは、塵芥になるホコリが自分の中に溜まらないんです。
「ホコリ」って言葉は面白いと思うんですけど、「誇りを持ちなさいよ」って言い方をされることがあると思うんですけど、その誇りと、塵芥になる埃と、二つの意味があるんですね。自分に自信を持つような誇りと、ピノキオのように鼻がニョキニョキと伸びてゆくようなホコリ(埃)、これの見分けをつける。
土曜日の夜のメールの中で、何回か書いてるんですけれども、それが「本心と業想念の截然たる識別」ということに繋がってきます。この本心と業想念の截然たる識別っていうのは、「何を今さら」って言われるかもしれないですけど、人の言動行為に対して思うことではなくって、あくまで自分の中における話です。
この本心と業想念の截然たる識別っていうのが、だんだんと、少しずつでも身に付いてくると、私達は感情に流される時間が減ってきます。どんどんどんどん減ってゆきます。そして、逆に、「私が語ること、想うこと、表すことは全て、人類のことのみ、人類の幸せのみ、人類の平和のみ、人類が真理に目覚めることのみ」っていう精神状態に知らないうちに変わってきます。そうである時間が長くなってきます。
もうすでに体験されてる方も皆さんのなかに、いっぱいいらっしゃると思うんですけど、「昔は3分もそういう状態を持続できればいいとこだった。でも、今は2時間ぐらいだったらできる」とか、「いや、半日、6時間ぐらいできるかな」とかって方がきっと大勢いらっしゃると思います。
宗教的な言い方をすると、空になるとか、悟りを開くとか、神我一体になるとか、自然法爾の生き方ができているとか、無為にして為すことができる時間が増えたとか、そういう状態です。昭和や平成の時代には、「いやあ、そうなるのはいつのことやら」って思いながら生きていたのが、この令和に入って5年、6年経ってみて、本当に手を伸ばせば届くっていうところまで、みんな一人一人が来ているときだと思います。
だからもう本当に、あと少し、あと少しで、例えば、今この瞬間に八方塞がりな感情を抱いて生きてる方がいたとしても、バーと視界が開けるときが来ます。「今まで悩んでたの、何だったんだろう」って、目からウロコって言いますけれども、ホントに自分の心が変わる、楽になる。「生きるってこんなに楽だったんだ」ってなります。
徳川家康ですかね、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」って言葉があったと思いますけど、私も若い頃、そういうふうに感じていた時代がありました。「なんて生きるってことは、辛いことなんだろうね」って想いながら、私は人間関係でつまずいてばかりいたんですけれども、「本当に、生きるって、なんて苦労の絶えないことなんだろう」って思っていましたけど、もうこの5年、10年、それが一遍に変わったわけじゃなく、徐々に徐々に変わって、今は肩の荷が降りたような状態です。皆さんもきっとそうだと思うんですけど、肩の荷が降りたような状態で生きています。
ところで、ピースレターでお伝えしたことあるんですけど、YouTubeの世界で有名な方、スピリチュアル界隈では有名になってる方で、ショーゲンさんというペンキ画家の方がいます。アフリカのタンザニアに行って、そこであるご縁からある村に行って、そこの何代か前の村長さんが、縄文時代の記憶を持つ生命体とコンタクトして、日本の縄文時代の生き方を教わって、その村の村人全員で縄文時代の生き方を実践しているっていう村がアフリカのタンザニアにあるブンジュ村という村で、縄文時代の生き方をしている場所があります。
ショーゲンさんは1年半ぐらいか2年ぐらいか、その村に滞在して、3歳や5歳の子供たちから、「ちゃんとこうやってやるのよ」「こうやって生きるのよ」って教わったそうです。もちろん他の大人の人も教えてくれたんですけれども、彼が村を出るときに、村長さんが「ショーゲン、日本に帰ったらこの村で覚えたことを、日本の人達、1人でも多くの日本の人達に伝えてくれ」って話をされたそうです。そのショーゲンさんの個展が、2月18日に東京の大手町、皇居の本当に近くであり、私達そこへ4人で行きました。
会場は結構広かったんですけれども、1000人いたかいなかったかわかんないですけど、ものすごい人だかりだったんですね。マスクを着用するのを忘れて、持っていこうっていう発想もなくて、4人で行ったうちの3人がコロナにかかってしまいました。2週間ぐらいで直った方もいれば、私は数日で治ったんですけど、「コロナさんは忘れた頃にやって来るんだな」ってことを実感しました。
皆さんの中でも、「最近、古賀さんの姿が見えないね」って心配してらっしゃる方がおられるかも知れないんですけど、コロナに罹りましたけれど元気です。大分調子も戻ってきました。声の張りも以前に近づいてきています。でも大事をとって、周りの人たちから「古賀さん、どうぞ休んでいてください。その間に、私達でやるから」っていうふうに言われて、古賀さんは今お休みをとっていますけれども、お元気ですんで、どうぞご安心ください。
まだ2時13分ですね。質問のある方いらっしゃったら手を挙げてください。(いらっしゃらない様子)もうわかってらっしゃる方ばっかりですね。そうしましたら、三浦さん、三浦さん、我即神也の印っていうのを見たことあります?
「あります。」
自分で動作して、やってみたことあります?
「あります。本当はそれを今日、聞きたかったんですけれども、私は白光さんの会員じゃなくって参加させていただいてるんですけれども、朝夜のズームで神聖復活の印は組んでるんですけど、白光の皆さんは日頃、朝夜、我即神也の印を組んでおられるのかなと思ってたんです。」
これは個人個人で違うと思うんですけど、皆さんを代表して高知の澤田さんに答えていただきたいと思います。どうぞ、澤田さん、教えてください。
「私、昌美先生が、今は神聖復活の印がもう最後の印だっていうのをお聞きして、暇があるときにだけ、我即神也・人類即神也の印を組むような状態でございます。私の場合は、ほぼ神聖復活の印を組む形になっております。」
はい。ありがとうございます。さっきも言ったんですけど、きっと人それぞれだと思います。それを組みたいと思ったときに組んでらっしゃると思います。私のことを言うと、我即・人類即の印は、毎日は組んでいません。時々やってます。だから、しばらく何ヶ月もやらないことがあると、「あれ?人類即神也の印の最初の動作なんだったっけ?」って忘れてしまうこともあって、「ちょっとこれはよろしくないな」と思って、最近は意識的にやっております。
澤田さんもさっきおっしゃいましたけど、神聖復活の印っていうのが2017年7月2日に降ろされて、みんなが組める状態になって以降は、この神聖復活の印が究極の切り札だっていうふうに伝えられているんで、神聖復活の印の響き、この波動の中に、我即神也、もしくは人類即神也の印を組むことで発生する波動が、もう全て網羅されているんではないかしらって私は思っております。違うかもしれないですけど…。
でも我即神也は、自分自身の神聖を引き出すっていうことに特化した印ですし、人類即神也の印っていうのは、それを広く世界に向けて、人類みんなが神聖なんだっていうことをやっている印ですので、毎日じゃなくても、時々はやられたらいいんじゃないかしらと思っております。よろしゅうございましょうか?
「ありがとうございました。」
はい、じゃあですね、今日はちょっと時間に余裕があるんで、我即神也の印、それから、「うー、うー」って声を発する人類即神也の印を1回ずつ組んで、神聖復活の印を最後に7回、完成の数、7回組んで終わりにしたいと思います。今、うちの人から、「呼吸法の人類即の印はやらないのか」って紙が来たんですけど、会員じゃない方は呼吸法の人類即の印ができないんですね。だから、声を発する人類即をやろうと思っております。よろしいでしょうか?それでは百武さん、印のリーダーをやっていただけますか?
「はい。」
お願いします。
《我即神也の印を1回》
《人類即神也の印を1回》
《神聖復活の印を7回》
「ありがとうございました。」
はい、百武さん、ありがとうございました。それでは、これで終わりにしたいと思います。ありがとうございました。