勉強会 2024年11月9日(土)13:00 ~ 14:40

 

2024年11月9日(土)午後_勉強会

はい。皆さま、こんにちは。11月9日の土曜日の勉強会を始めます。

改めて振り返ってみますと、勉強会でお伝えしている内容というのは、個人個人の内面における極めて個人的なお話が多い傾向にあるなと思いました。

私が扱っているテーマは、祈りや印などのように、他の人々と簡単に一緒にできる、一緒に共有できる実践行の対極にある内容で、他人と共有をしづらいテーマなんだと思います。

どうしてそのような共有しづらいテーマの話ばかり取り上げるかと申しますと、私自身が、どんなにたくさん祈ったり、印をたくさん組んだりし続ける日々を送っていても、それによって心が比例して立派になったり、言動行為に神聖を顕わすことが当たり前になるといったことに繋がっていない、魂的な成長に直接繋がっていないのではないか、という現実に突き当たって、それを痛感した経験が原体験としてあるからです。

皆さまも、ご自分のこととして振り返ってみてください。例えば、「神聖復活の印を1日に100回組んでます」とか、「Zoomでやってる祈りの会をハシゴして、毎日二つも三つもの祈りの会に参加してます」とか、「全国各地でWPPCを開催してきました」とか、「これまでにピースポールを100本以上立ててきました」いうような場合に、それによって人間関係の悩みがなくなったとか、神聖に基づいた病との向き合い方を身につけたとか、それによって悟りを開いたという方は、全体のパーセンテージで見ましたら、少ないのではないかしらと思います。

魂が開けて、神聖の想念・言動・行為が大きく進展したという経験は、現実の社会生活の中で、実際に人間関係に揉まれたことであったり、自分が実際に大病や大怪我をしたときなどに、気付きとして体験する、というパターンがほとんどだと思います。

そのように、壁にぶち当たってみて、初めて自分の生き方を振り返ってみたとか、神聖復活への生き方を見つめ直して軌道修正した、というような体験をされた方が多いのではないでしょうか?

本日のテーマは、『想いの癖を手放すために』ということですが、皆さまは、想いの癖というのは、どこにあるのだろうかって考えてみたことがありますでしょうか?画面に出て参加してくださってる方、考えたことのある方は手を挙げてください。(誰も手をあげない)あまりいらっしゃらないですよね。

多くの方が考えたことのないこの想いの癖は、当たり前のことですけど、私たちの心の中にあります。言葉を換えますと、幽界にある幽体の中にあります。もっと違う言い方をしますと、潜在意識の中にあるということもできます。

想いの癖というのは、肉眼で見ることが出来ない、肉体の耳で聞くこともできない、手で触れることも出来ないところにあるわけです。そのままでは、人間は自らの心さえも把握することが出来ないということになりますが、しかしそこはうまくできていて、守護の神霊は、人間たちが自分自身の心の状態やあり方を知るためのツール、道具を用意してくださっています。

それが、私がいつも言う『他人に感じた想い、組織に感じた想い、世界に感じた想いなど、外の世界に感じた想い』です。

今から私の体験をお話しします。私の想いの癖の話です。私は人に何か意見されることが昔から大嫌いな想いの癖がありました。

でもそれは、最初からわかっていたわけではありません。全然、知らない(気付かない)でやっていたわけです。今そこにいますけど、うちの人から指摘されて初めてわかったわけです。

初めてわかったと言っても、すぐに「そうか、そうか。ごめんね、悪かったね」とはならなかったんです。「何言ってんだよ」って文句言ったんです。指摘されることが嫌いだっていうことを指摘されて、それに反発するということを、最初はやってたんですね。

でも、彼女は指摘することを止めなかったんです。それは人間としての彼女がやってることじゃなくって、私の守護霊さまが彼女の体を使って、私の想いの癖を直そうとしてくださっていたんですね。だから、一番近くにいるうちの人の口を使って、彼女の体を使って、私に指摘し続けてくれたんです。

そのおかげで、何回も何回も言われているうちに、自分を省みることになったんです。自分で「確かにそうだな」って思えたところが軌道修正の出発点で、「どうやったら直るんだろう?」って考えて、「そうか、昌美先生は寄り添いなさいっておっしゃってるし、人の立場に立ってものを考える練習をしなきゃいけないんだな」っていう、そんな基本的なところから始まりました。

自分を守ろうとして、人から「あなた、こうなってるよ」って言われたことに対して、「なんだよ。うるさいな」って反発していたその状態のこともよーくわかりました。「自分を守ろうとするときに、どうして自分を守ろうとしていたのかということですね。

やっぱり体験の積み重ねで、そういう想いの癖って出来てゆくんですけれども、人から何か言われてブロックして、自分を守ろうとするような経験をたくさん積み重ねた結果、心の洞窟にこもる。ただ洞窟にこもって、じっとしているだけだったらいいんですけど、私の場合は、自分の洞窟に入ってこようとする人を追い払うようなことをやっていたんですね。

今はそのことがよくわかります。完全になくなったわけではないんですけれども、すぐに反省できるようになりました。

次に、ある方の体験をお話します。その方は、人の話を真剣に聞かないで頭の中で勝手に自分の思考を進めて、円滑なコミュニケーションが取れない、それが得意ではないという想いの癖がありました。でも私と同じで、やはり本人は、そのことについての自覚がありませんでした。

ある時、その方が、逆の立場を経験するという場面がありました。人の話を真剣に聞かない方と接するという場面です。

その方は、人の話を真剣に聞かないその人と密に接してみて、「これは、私がやってることをこの人が見せてくれている」というふうに思ったそうです。

私たちはふだん、深いことを考えないで他人と接していますと、人が言った言葉を聞く、もしくは人の振る舞いを見るというようなときに、自分の想いで「この人のこの話はいいな」とか「良くないな」とか、「嫌いだな」とか、「この人のこういう振る舞いは、どうなんだろうな」とか、「好きだな」とか、いろんな想いが頭の中をよぎります。

その人の言葉とか、振る舞いとか、これが、私たちの心の中の状態を知る一番のバロメーターなんです。そうですね、一番ぴったりな言葉は鏡ですね。鏡になって映し出して見せてくれているんです。

ただ、そのときに大事なことは、相手がやっていることが何であろうが、人が言ったことが何であろうが、どうであっても構わないんです。それは、良いことを言ってたとしても、悪いことを言ってたとしても、それはどうでもいいことなんです。

大事なことは、それに対して自分がどう思ったか、なんです。それが、実は自分の中にあるものを映し出して、見せてくれているという状態になっているんですね。

これは、理屈としてわかっていても、感情が邪魔をしてくるんで、なかなか難しいんですね。それを実際に頭でわかっていても、自分の想いの癖を軌道修正しようとするときに、それがなかなかできないように、感情が邪魔をしてくるんです。

私はそれを「エゴさん」って呼んでるんですけど、「自分を良くしよう」とか「神聖を顕わそう」ということを邪魔するんです。エゴさんがブロックして、できないようにするような想いの動きを、心の中に起こさせるんですね。

それは本心の自分ではありませんけれど、神聖を忘れていた時代に作り出した自分の分身なんですね。私たちの一部なんです。

ですから、「良いでも悪いでもないんだってみんな肯定するのがいいんだ。みんな抱きしめてあげる、みんな抱擁してあげる。そういうような心持ちで、エゴさんと接するのがいいんだ」って、真妃先生なんかもよくおっしゃるんですね。

「いや、そうは言われてもできない」っていう方も時々いらっしゃって、私はそういうときに、おすすめをしているのは、土曜日の夜に言ったか、何に書いたかわからないんですけれど、自分の体を使って、自分の手を使って、自分の胴体を抱きしめることをお勧めしています。

自分で自分を抱きしめるんですね。肉体を使って自分を抱きしめるということです。この自分を抱きしめるというやり方は、守護霊さまと一体化するときにも使えますし、エゴさんを抱擁するときにも使えます。

エゴさんにお説教しても駄目なんですね。エゴさんって頑(かたく)ななんです。自覚のある方がいらっしゃったらわかると思いますけど、エゴさんって本当に頑固なんです。思い込みが激しいんですね。思い込みの塊なんですね。

だから何を言ってもエゴさんは変わろうとしないんです。その変わらないエゴさんを、どうしたら成仏させられるかというと、北風と太陽の寓話がありますね。北風が一生懸命に旅人のコートを脱がそうとするんだけどできなかった。その後に今度は、「私がやろう」って太陽さんが陽射しを燦々と旅人に照らしつけたら、旅人さんは暑くてたまらなくなってコートを脱いだという話です。

その太陽の側に自分を置いて、無条件の愛で抱きしめるっていうことが、結局のところ、エゴさんと一緒に高まってゆく一番いい方法じゃないかしらって私は思っております。

エゴさんを変えようとすると、反発を食らうんですね。どういうふうに反発を食らうかというと、自分の想いの中に、神聖復活しようという方向と、逆の自分が現われてくるようなことになるんですね。

だから、「私たちは神の分霊であって、守護霊・守護神と一つのものなんだ」という認識を基にして、自分を抱きしめる。そのときには、どうにかして説得しようとか、そういう余計な考えは、一切いらない。無言で抱きしめるのが一番効果的なんですね。

ここにいらっしゃる方は、女性の方がほとんどだと思うんですけど、この中には、お子さんを産み育てた方もいらっしゃれば、今生の人生では子供を産まなかったという方もいらっしゃるかもしれません。でも、母親の愛というのが、自分自身を抱きしめるときに、一番参考になる無条件の愛のあり方なんだと思います。

ここにいらっしゃる方々はほとんど、お子さんを育てて、お子さんはみんな大人になっているという方々ばかりだと思いますけど、子供がもっと小さかったときには、いろいろと思い通りにならないで、大変な想いをされてきたと思います。

でも子供がどんなにぐずっても、暴れても、もうちょっと大きくなって不良化しても、子供を嫌いになるっていうことは、皆さん、経験しなかったと思うんですね。

日本とか、世界とか、全体で見れば、0.0000000000000000000何%のお母様は、子供から逃げるという選択をする方もいらっしゃるかもしれませんけど、ほとんどのお母様というのは、子供がどんなふうであっても、愛し続けていると思うんですね。

私は、男の体を持ってますから、お母さんたちの気持ちを、今生の肉体では感じられないんです。魂ではわかりますけど。だけどやっぱり、お母さんの愛って、この世で一番強い愛だと私は思うんです。

その母親の愛を自分の中に甦らせて、自分を抱きしめてあげる、愛してあげる、赦してあげるっていうことに応用すると、特に女性の方々は、もうずっと高いところに、すぐにでも行けちゃうんじゃないかしら思います。

前にも話したかもしれないんですけれども、天理教の教祖である中山みきさん(1798-1887 ※天保9年(1838年)10月26日に、この世と人間を創造した神である「天理王命(のみこと)」の啓示を受け、天理教創始者となる)は、「この世は鏡屋敷なのですよ」という言葉を残したそうです。

「天理教教祖も救世の大光明の中にいるんだよ」って、五井先生がいつかおっしゃってましたけれども、天理教祖はそのことを、江戸時代の終わりか明治の頃に、もうその頃に、この世の実体について、わかっていたんですね。

「上も下も、右も左も、前も後ろも、全部鏡で出来た世界に、私たちは生きてて、外の世界に感じることっていうのが、感じるその原因がすべて自分の中にある」っていう話です。

最近、2000年代に入ってからは、世の中のスピリチュアルブームの中で、この真理を、『鏡の法則』って言葉や、『ミラーワールド』という英語で説明する人も現われましたけれども、「私たちは本当に全面鏡張りの中に生きているんだ」って思えれば、例えば家の中で旦那さんが発する言葉、彼の振る舞いに対して、自分が思った想い、それが自分の内面を見せてくれているっていうふうに捉えると、今日のテーマになっている『把われの想いを手放す』ということが、とてもしやすくなるんじゃないかしらと思っております。

今1時32分なんで、ここで神聖復活の印を14回連続で組みたいと思います。よろしいでしょうか?はい、それでは始めます。

<神聖復活の印を14回>

ありがとうございました。こうやって連続で、たくさんの数の印を組んでいると、無念無想で印を組めるっていうことは少なくて、何かが頭の中をよぎってたりするんですね。印を組みながら何かを考えてるんです。

私が今、思っていたことは、霊的に何かが見えるわけじゃないんですけど、この画面の中で皆さんが印を組んでる後ろの上の方に、守護霊さま・副守護霊さま・指導霊さま方が一緒に印を組んでるんじゃないかしらと思って、もちろん私の後ろにも守護霊・守護神さま方…、いえ、守護神さまがお出ましになることはそうそうないんで、「守護霊さま・副守護霊さま・指導霊さま方が一緒に印を組んでいるんだろうな」と思ってやっていました。

ですから、ここにいるのはこの2、30人だけじゃなくて、90人から100数十名ぐらいの人たちが、神聖復活の印を組んでるんだなと思いながら、印を組んでました。

この神聖復活の印を組むときに何が大切かというお話を、ここ最近、何ヶ月かの間、白光誌なんかでも掲載されてますけれども、印を組むときの意識が、どういう意識で印を組んでるかっていうことが大事なんだっていうお話がありました。

そのことも思い出しながら、印を組んでました。言葉は何でもいいんですけど、「我は神聖なり」とか、あるいは「我即神也の私が神聖復活の印を組むのだ」とか、「神の子の私が組むのだ」とか、その本質を表してさえいれば、言葉は何でもいい。表現する言葉は何でもいいと思うんですけれども、『神意識に立って印を組む』ということが、これからますます重要になってくるんだろうなって思いました。

2017年7月2日に、神聖復活の印がこの世に降りて、あれから7年が経って、私たちは同じ印を組んでるんですけど、きっと皆さまも自分の組む印が、この印を組み始めた当初の印と全然違うなっていう実感を持ってらっしゃる方も多いんじゃないかしらって思います。

私たちはそんな深いこともわからず、霊的なことも何も見えも聞こえもせず、この肉体界で一生懸命に、「神聖の想念・言葉・行為を自分に顕わすんだ」と思って生きてるんですけど、その裏では、守護霊さま・守護神さま、特に守護霊さまが、一生懸命に私たちの神聖が本当に磨き出され、輝きを弥増してゆくという方向に導いてくださっているということを、最近、特に感じております。

ああ、もう1時49分ですね。では、10分ぐらい休憩にして、2時からまた始めたいと思います。画面は最初のタイトルの状態に戻しておきますので、心置きなく休憩をしてください。それでは休憩に入ります。

<10分間の休憩>

それでは、2時になりましたので始めます。先ほど、外に感じた想いが自分の中身なんだというお話をしました。またそれと同時に、人から指摘されることの中には、守護霊さまからの直接の導きがあるという話もしました。

これはどういう関係にあるかと申しますと、自分で外に感じたことを自分に向け直して、自分自身で軌道修正できることに関しては、ご指導をたまわる必要はないんですけれども、なかなか本人(その肉体人間)が真理に気がつかない場合には、守護霊さまが周りの人の体を使って、外から指摘するという形で導かれる場合もあるということです。

私、最近、もう5年以上も前に聞いた話を思い出してるんですけれども、どういうお話かと申しますと、神聖復活の印がこの世に降りて間もない頃、昌美先生が3人の理事の方々と、3人のお嬢様方を相手に、次のようなお話をされたということをある方から聞いた話です。

それは、どういう話かといいますと、「これから神聖復活の印を通して、世界中のたくさんの方々が私たちに繋がってくるけれども、あなた方はそれで満足していていてはいけないのよ。消えていく姿で世界平和の祈りができるところまで、導かなくちゃいけないの。本当の消えてゆく姿ができないと、人は本当の救われに至らないものなのよ」っていうお話でした。

今3人のお嬢様方が、ほとんどの行事を昌美先生の代わりにやってますけれども、由佳先生・真妃先生・里香先生が、今やっていらっしゃることは、今のお話に沿って、私たちひとりひとりに、本当の消えてゆく姿ができるように、というご指導をくださっていると思います。

この消えてゆく姿ということを思いますと、確か今夜の案内メールのテーマも『消えてゆく姿がはかどる自分との向き合い方』という話を書いてますね。それで今夜、実際にやることは、世界平和の祈りの後に、消えてゆく姿を人に見立てて(擬人化して)感謝する時間を持ちます。

その後に、近未来の完全に神聖復活を果たした私たちが活躍してる場面をイメージする時間を持ちます。消えてゆく姿ということを思ったときに、五井先生がよくおっしゃっていた『把われの想い』という言葉を思い出します。

この『把われの想いを手放す』ということが、『消えてゆく姿を実行する』ということなのではないかしらと、私は思っております。よくメールなんかにも書きますけれども、把われの想いというのは、具体的には、思い込み・こだわり・決め付け・執着の想いなどです。

そういう類の想いが把われの想いじゃないかしらと思うんですけれども、「把われなければいいんだ。想いを手放せばいいんだ」って頭でわかっていてもできないというのが、私たち肉体人間の常なんだと思います。

それで2週間前の土曜日の夜の会のときに、「神聖復活したいんだ」っていうその想いは、本気の想いですか?ただの憧れの想いですか?という話をしました。自分自身に対する「本気なのか?憧れなのか?」っていう問いかけは、本気でやれば、本当に人生を変える質問だと思うんですね。

自分が本当に変わるきっかけになる問いかけなんです。もうすでに変わってる人にとっては必要ないかもしれませんけど、もうちょっとで変わるというところまで来てる人たちがほとんどだと思うんで、本気なの?憧れなの?っていうことを自分に問いかけてみて、それが本当に本気なんだったら、神聖復活するための想念・言葉・行為を顕わすという、実際の取り組みを行なっていると思うんですね。

やっていらっしゃる方は納得できると思います。本当に本気だったら、神聖を顕わした想いを思う、神聖を顕わした言葉を発する、神聖を顕わした振る舞いをするっていうことを、実際にやってらっしゃると思います。

そのように、「やってるか?やってないか?」っていうことを自分自身に問いかけて、もしもやってないっていうことであれば、それはまだやっぱり憧れの側に立っている、ということだと思うんですね。

野球の大谷翔平さんは、本当にいい話をしましたよね。この間の2週間前、土曜日の夜の会で彼の言葉を話しました。あの日の台本には、あの言葉は入ってなかったんですけれども、その場で思い出して、パソコンのメモ帳に入れてあるあの言葉を見て言いました。

その言葉をもう1回言いますね。野球を知らない人にとっては、「何、その話?」って思われるかもしれないんですけれども、大谷選手の言葉です。WBCっていう野球の世界大会の決勝戦で、アメリカの代表チームと試合をする直前のロッカールームでの声出しの場面に話した言葉です。(※声出し ➡ 円陣を組んで気合いをかける場面)

「僕からは1個だけ。憧れるのをやめましょう。ファーストにゴールド・シュミットがいたり、センターを見ればマイク・トラウトがいるし、外野にムーキー・ベッツがいたり、野球をやっていたら、誰しも聞いたことがあるような選手たちがいると思うんですけど、憧れてしまっては超えられないので、僕らは今日、超えるために、トップになるために来たので、今日1日だけは、彼らへの憧れ方を捨てて、勝つことだけを考えていきましょう。さあ行こう!」っていうお話でした。

野球用語が入ってるんで、ピンとこない方もいると思うんですけど、「憧れることをやめる」っていう話が、私は素晴らしいなと思ったんですね。彼は現実にそれをやっているわけです。世界的に有名な野球の選手を憧れるところから始まったんでしょうけれど、彼は、憧れることを実際に辞めて、それで世界中の人たちが憧れるような有名な野球選手たちから、逆に憧れられるような、逆に尊敬されるような人に今はなっています。

それは、大谷選手が憧れるだけでは超えられない(※ 望みを達成できない)ということを、本当にわかって実践したからだと思うんですね。

私たちが神聖復活するっていうこともまったく同じで、「神聖復活できたらいいな」って、思ってるだけでは神聖復活しない。神聖復活したいんだったら、神聖の想念、神聖の言葉、神聖の振る舞いを行ないに顕わす練習をすることです。想いに顕わす、言葉に顕わす、行動に顕わすっていうことを、本当にやることが大事なんだと思います。

やり方は、本当に人の数だけあるんじゃないかなって思うんですけど、去年の9月の一番最初の勉強会のときに、私が2010年から13年にかけて、本当にもう一日中、「ありがとうございます、ありがとうございます」って言いながら過ごした話をしました。

そのきっかけのときに守護神さまから、「すべての人にありがとうございますと言え」と言われたんですけど、私はそのときに、「そんなのできません」って答えました。そうしたらこっぴどく叱られたんですけど、その後で、「心の中で、なんでこんな奴にありがとうなんて言わなきゃいけないんだよって、毒づいていてもいいから、顔はにこやかに、声は柔らかく、ありがとうございますってやってごらんなさい」って言われました。

私すぐに、そうやって反発する癖があったんですけど、その反面、素直な面もあって、「そっか、心の中で思ってることと、実際に口にすることが違っててもいいんだったらできるな」って思って始めたんですね。心の中で「なんだ、この野郎」って思いながらも、「ありがとうございます」って本当にやったんです。

最初は、本当に演技でした。演技としか言いようがないんです。心の中で別なことを考えてるんですから。でも、それでいいって言われたんで、一生懸命やりました。実際にやってみたら、3ヶ月ぐらいで、「何か変わってきてるな」っていう感じがあって、3年過ぎてみたら、嫌いな人がいない、苦手な人もいないっていう状態の自分に変わっていました。

去年の9月の勉強会に参加されてた方は、覚えてらっしゃるかもしれませんけど、「昌美先生が何十年か前に、この話をしてたと思うんだけど、それを覚えてらっしゃる方いませんか」って、参加されてる方に私、質問して聞いたんです。

そしたら教えてくださった方がいました。実際に「演技でもいいから」っていうことを昌美先生がおっしゃっていた。私はすっかり忘れたんですけれども、演技でもいいから、神聖を発揮した自分を演じる。「演技でいいからやりなさい」っていうお話だったんだと思うんですね。

その話をしてくださった方は、その話をよく覚えていて、「演技でいいんだったらやろう」と思ってやり続けてきたっていうお話をされていました。

最初は本物じゃなくても、練習し続ければ、必ず上達して、本ものの神聖を発揮した私たちにみんなが成れるんです。「いや、みんなができたって、あたしゃできないよ」っていう方がもしいらっしゃったら、それは「できない」という自分の信念、思い込み、こだわり、決めつけによって、自分が後生大事に抱えて手放さないその想いによって、できないという現実を自分で作っているということです。

その境涯を超えるためのお話で、これもやっぱり何十年か前の富士聖地で、昌美先生はこうおっしゃいました。「空中ブランコを飛び移るんだ」と。「空中ブランコを飛び移るようなもんだ」とおっしゃったんですね。

空中ブランコを飛び移るときには、両方で揺れてるブランコのうち、自分がこっちにいるんだとしたら、タイミングを計って、一番乗り移りやすいタイミングで、意を決して「えいっ!」て思って飛び移ったら、ちゃんと違うブランコに乗り移ることが出来る。

その違うブランコに乗り移って見えてる景色は、神聖の世界の景色なんですね。同じ周りの人間を見ても、同じ自分の住んでる町を見ても、まったくガラッと変わって見える。自分も同じ名前の同じ人物で、自分の家族も人が入れ替わったわけじゃなく、同じ人が目の前にいる。街の人たちも近所の人たちも同じ人たちだけど、悪いところが見えない。

見えないっていうか、種明かしをすれば、気にしない、引っかからないっていうことなんですね。あの方はこうしているっていう事実は見えているんだけど、それに対してネガティブな決めつけをしないでいられる神聖の自分に変わってしまうんです。

そうすると、自分にとっては、その人は悪い人じゃなくなるんですね。だから、私の座右の銘っていうのは、「自分が変われば世界が変わる」って言葉なんですけれど、これは実際にそうだっていうことを、体験したからこその座右の銘だという言い方もできます。

自分が変わらないと世界が変わらないんですね。たとえ、この地球世界全体が平和な世界になったって、自分が変わらなかったら、その変わらない人だけは、不平不満の世界、不足に満ちた世界、苦悩に満ちた世界に生き続けるんです。

「世の中が良くなれば、自分も良くなるんだ」って希望を持ってらっしゃる方は、ここにはいらっしゃらないと思うんですけれども、他力本願の想いで生きていると、本当にこれから地球界が次元上昇してゆく、どんどん精神波動も物質波動も霊化してゆく、本当にすべてが変わってゆくという中にあって、自分だけが変わらないということになると取り残されちゃうんですね。

それも本人の選択なんで、つらい思いするのは当人だけですし、いいとか悪いとかハタから言える話じゃないんですけど、奥の奥の奥の大きな神様の世界から見ると、そういう人たちをも引き上げよう、救い上げようとされているんですよね。

私たちは、肉体界にいる肉体人間として生きてるから、例えばテレビニュースなんかを見て、「パレスチナ大変ね」「レバノン、大変ね」「ウクライナ、大変ね」「スペインの大雨で200人以上の人が死んじゃった、お気の毒に」とかって思って見てますけれど、奥の奥の奥の神霊の方々っていうのは、全員すくい上げようとされています。

救われる時期はある程度、何年か何十年かの時間差があって、同時に救われることはないかもしれませんけど、神々は、みんなを神聖の世界の住人に戻そうとして働かれています。

私たちが世界平和の祈りをしたり、印を組んだりするときには、地球に根ざした神界の神々さまと、宇宙の他の星から来て、地球の進化を応援してくれてる宇宙人、宇宙天使、その方々はもう神々って言ってもいいんですけど、五井先生もこうおっしゃってました。「そういう宇宙人の方々と、地球の神霊の方々と、地上にいて世界平和を祈れる私たちが三位一体になって行なう平和運動、それが祈りによる世界平和運動なんだよ」って。

それを今、私たちは進めていて、一つの大きな成果を得ようとしている。その手前の段階まで来てます。それが2025年、日本が世界の国々から平和の中心の国だと認められるっていうふうに言われております。

私個人は、別に2025年じゃなくても、それが2026年になっても、2027年になっても、2032年になっても、別に年数にこだわりはないんですけれども、本当に近い将来、日本が平和の中心の国になって、世界人類を導くというときが来ます。

そのときに、私たちひとりひとりが、街頭に出てマイク持って演説とかしなくても、ただ普通にそれぞれの住んでいる都道府県で、普通の日常生活を送ってるだけで、世界人類を導く働きをしているという人たちになるのが、私たちなんだと思います。

もしかしたら、この中から世界に飛び立って、いろんな国を回って演説して歩く方がいらっしゃるかも知らないですけれど、そういうことをしなくても、世界平和のために役に立つような働きができるように、五井先生は、50年60年70年の歳月をかけて、私たちを育ててくださったんですね。

そういう全体の大きな話を考えると、自分個人が悩みだと思ってるようなことが、「実は大した悩みじゃないな」って思えたりもします。昔、昌美先生がよくおっしゃってたのは、「自分のことはさておいて、世界平和を祈りなさい」というような言い方をされてました。「そうすれば、それが自分に返ってくるんですよ」っていう話ですね。

途中から、その話はもうされなくなったんですけど、2000年代の始めぐらいまでは、そういうふうにおっしゃってました。でも、だんだんと、神聖を発揮するっていう段階に近づいてきて、その段階に入ってきてからは、「自分のことは後回しにして」という生き方は、もう古い生き方になりました。

今は、「自分を幸せにする」「自分が輝く」「自分が明るく、楽しく、楽天的に、神の性質を顕わして生きる」という段階に入ってきています。

ここで、講師じゃない方がいらっしゃるかもしれませんけど、今年の4月に出た新しい講師への課題の項目を読み上げます。

  1. 神聖な体験を振り返り、それを伝える場を作る。
  2. 神聖の自分を大切にする時間を作る。(自分の人生を楽しむ時間をつくる)
  3. 周りの方の神聖を大切にするコミュニケーションを心がける。
  4. 常に自らの神聖な部分を引き出すことを意識する。

このなかの2番で、自分の人生を楽しむ時間、神聖な自分を大切にする時間を作るっていう話が出てきて、自分を後回しにする時代が終わったということを、今年に入ってしみじみと感じております。

だから、こうやって祈り、印を組んでる私たちが、まず先に幸せじゃなければ、楽しく生きてなければ、明るく過ごしてなければ、それはやっぱり、世界人類に対して説得力がないですよね。

だからまず私たちが変わるっていうことが、一番大事なことなんではないかしらと思っております。2時33分になりました。さっき14回連続で印を組みましたんで、最後は1回だけ、心を込めて、ちょっとゆっくりめに神聖復活の印を組みたいと思います。

一呼吸5秒ぐらいで組みましょう。簡単な言葉を2回繰り返してから、神聖復活の印を組みたいと思います。その言葉は、「世界人類の神聖復活、大成就!」です。これを2回繰り返します。「はい」と言ったら宣言をして、また「はい」と言ったら印を組みます。

「世界人類の神聖復活、大成就!世界人類の神聖復活、大成就!」

<神聖復活の印を1回>

ありがとうございます。お忙しい中、ご参加くださいまして、ありがとうございました。これで終わりたいんですけれども、よろしいでしょうか?はい、それでは皆さまのマイクをオンにします。ありがとうございました。