皆様、こんにちは。5月4日の勉強会を始めます。ごめんなさい、始まりがですね、他にも何人かいらっしゃったんですけど、私、いつものZoomに自分で入っちゃったもんで、ちょっと遅くなりました。
それで、今日は自発性っていうお話から始めたいんですけれど、その前に皆さんで一緒に、最初に印を組みたいと思うんです。我即神也を1回、人類即神也を1回、呼吸法の人類即の印を持っている方は呼吸法の印で、呼吸法の印を持ってない方は、「ウー」ってやる人類即神也の印を1回、3回目に神聖復活の印を1回、組んでまいりたいと思います。私の人類即は、声を出す方で行ないます。
じゃあ始めましょう。よろしいでしょうか?
《我即神也の印を一回》
《人類即神也印を一回》
《神聖復活の印を一回》
ありがとうございます。今日のテーマは、先ほどもちょっとお話したんですけれども、「自発性を養って神聖を発揮する」ということです。初めに、瞑想もしくは統一の響き、波動の中に、ご自分の心と体を溶かし込んでみてください。
そして、地球上で動いている人類の想念言動行為をつぶさに思い浮かべ、それらの動きを心の中で、ジーッと観察してみてください。いかがでしょうか?心の中で、俯瞰的に、地球人類の動きを観察してみますと、何となく、それそれの傾向のようなもの…、根本的な行動原理の違いのようなものが観えてきませんでしょうか?
はい、目を開けていただいて大丈夫です。私が瞑想の中で、地球上で動いている人類の想念言動行為をつぶさに観察しておりますと、自発的に動く人と、人に何かを言われなければ動かない人の2種類の人達がいるんだな、ということがわかりました。
その違いは、どこから来るものでしょうか?前世や過去世の経験による持って生まれた性格でしょうか?それとも、育った環境や人間関係、本人の想念行為による後天的な素養でしょうか?どちらも正しいと思うんですけれども、もっと根本的なところ、本質的なモノの見方をしますと、それは地球の人達一人一人が、どれだけ神聖を発揮しているか、それともしていないかの違いであり、神聖を顕現する割合の違いから来ているものであることがわかります。
神聖を発揮している割合が多い人は、自らが自らを律して、自分を導き、自分を育て、自分を磨き高め上げるということが、容易に出来ています。そのような心構え、心意気、心掛けを持って過ごしておりますと、人生の中で経験するどんな出来事も、どんな瞬間も、どんな人も、何ごと何ものをも自らを立派に育て上げる材料として使うことができて、また栄養分として吸収して、そうしたこの世の経験・体験を通して、魂や霊体を大きくすることが出来ます。
そこで思い出されるのが、五井先生の宇宙子科学メンバーに対する向き合い方と、一般の会員さんに対する姿勢の違いです。五井先生が肉体界におられた頃には、一般の会員さんはお客さんとして、丁重に、大切に、無理強いをすることなく接しておられました。逆に、当時の宇宙子科学メンバーのような近しい方々には、お客様扱いをされず、ビシビシと厳しいご指導をなさっておられたそうです。この話は実際にあったことで、瀨木さんのご著書に書き残されています。
瀨木さんが博報堂の社長から白光真宏会の職員になって、いきなり理事長として入られたときに、五井先生から「今までのようにお客さん扱いはしないよ」って話をはっきりと伝えられたそうです。実際に、その後の10年近くですかね、昭和47年から55年までの間、優しい五井先生の姿も見てきたけれども、厳しい、本当にもう峻厳な五井先生も見てきたということを、瀨木さんはお話しされていました。
そして現代、今の話です。もう昭和の時代を遥かに通り過ぎた令和のこの時代を生きる今、私達はその当時、40年以上、50年以上前のように、神々や宇宙天使の方々から、いつまでもお客様扱いされていることで満足していていいものでしょうか?
もう2年・3年は経つでしょうか?動画による祈りの会のときに、五井先生が昌美先生に現れて、私達はこういう言葉をいただきました。「あなた方は、五井昌久の化身だ」と。
私がそれを聞いたときに思い、また今も思い続けていることは、「そのお言葉にふさわしい私達でありたいな」ということです。そのために一番基礎的なことは、自発的に神聖開発に取り組む気構えを持つように、その素養を養うことだと思います。
それがまた冒頭の「自発的に」の話と繋がってきます。今この瞬間、2024年の5月を生きる私達は、神聖を開発するために、自発的に想念言動行為する必要があるのではないかしらと思っています。
どうしてそう思うかと申しますと、私達がそういうふうに動いていかなかったなら、地球の未来が暗いものにならざるを得ないからです。もう本当に今、地球というこの惑星は、いつどこで何が起こってもおかしくはないという状況の中にありますけれども、幸いなことに神聖復活の印が、壊滅的な状況になる前に降ろされたことによって、この印を組む世界中の1万人ぐらいの人達の印から出てくる光・エネルギーによって、かろうじて私達は、今日の日を迎えることができています。
朝、目が覚めて当たり前のように顔を洗ったり、歯を磨いたりなんかして、お茶を飲んだり、当たり前のように朝ご飯を食べたり、当たり前のようにテレビをつけて今日の天気を確認したりする。そのように、当たり前だと思っているこの日常が、本当に最近しみじみ感じているんですけれども、当たり前じゃないんですね。もう奇跡的に今日の日を迎えてるっていうことをものすごく感じています。
最初に、「今の地球の人類のあり方を、瞑想の形で思い浮かべてください」と言ったんですけど、地球の人達が今やっていること、今何を思い、何を語り、どう動いているか、行動しているかということを全体で見た場合に、何百年たっても、何千年たっても、もしかしたら何万年以上経っても変わらない、変わっていない部分がある。
そういうことを考えたときに、2017年に神聖復活の印が出てきて、何とか地球は滅亡しないで済んでいますけれど、世界が平和になることを、調和することを、みんなが幸せになることを祈る人、もしくは神聖復活の印を組める人っていうのは、ものすごく神々の世界から見たら、もう大切な大切な大切な宝物のような人達に見えているんだと思います。
でもその神界から見た宝物のような人達、私達が自己否定をし、自己限定をし、「自分の神聖を信じたいけど信じきれない」というところに踏みとどまって、いつまでも足踏みしている状況を、神様の世界から眺めてるつもりで見てみてください。
「もったいない」というように思わないでしょうか?救世の大光明の神々も、太陽系の他の星々、金星を中心として木星からも水星からも火星からも土星からも、地球のサポートに来ている宇宙天使の方々がいらっしゃると思うんですけれども、今こうやっているこの瞬間にも、地球の上空で、日本の上空で、私達の心の動きをつぶさに観察されています。
今「観察されていると思います」って言おうと思ったんですけど、「思います」を取られて「観察している」という響きが出てきたんで、「います」と断言したんですけれども、今日はうちの人にもお話したんですけど、朝から何回も「地球の人達は」と出てくるんです。それは、きっと宇宙天使の方々が強く、私達一人一人に働きかけて、私達の心の目覚め、神聖の甦りを助けてくださっていることなんじゃないかしらと思っております。
いつも私が思うことは、人と話をする機会があったり、テレビを見たり、インターネットでニュースを見たり、いろいろなものが目に触れ、交流し、という中で、何をどう見るか、何をどう捉えるか、何をどう感じるかということが、神聖の響きを元にした捉え方、見方、感じ方になれば、みんながみんなそのような状態になれば、世界は本当に良くなる、調和する、仲良くなる、平和になる、というふうに感じております。
「あの人が悪いことしてるからあの人を正さなきゃいけない」とか、私達がいつまでもそういう発想でいたなら、地球に平和は未来永劫訪れないと思います。だから、どこかの時点で私達は、「人のせいにする」というものの考え方を卒業しなければいけないと思います。
もう既に卒業しておられる方もいるかもしれませんし、今日・明日に卒業する方もいるかもしれませんし、1ヶ月後、3ヶ月後、半年後、1年後、もっと先に卒業する方もおられるかも知れません。
そのときに、「卒業するっていうことは一体どういうことなんだろうな?」って見たときに、「手放す」、その想いを手放す、一言で“把われ”っていわれている人間の性質ですね、こだわり、思い込み、決め付け、執着、そういう想いの癖を手放すことが、何よりも大切だなというふうに感じております。
そのための方法として、ここのところずっと、もう半年以上お伝えし続けてきたのは、他人に感じた想いを自分に向け直して、自分の中に、相手にそう感じた本当の原因を見つけてあげる。見つけた後に何かをするわけじゃない、見つけるだけでいいんです。
それは、言葉を変えれば「認めてあげるだけでいい」ということで、「こんな思いがあったんだ」「あなた、こんなところにいたのね」って、自分の心の中の今まで気がつかなかった自分に対して、存在を認めてあげる。
存在を認めてあげる場合にも、ただ一面的に、平面的に見るんじゃなくって、プラスとマイナス、陰と陽、被害者と加害者のような、全く正反対の自分が両方いるのでそれを見てあげる、認めてあげる。これは“手の平と手の甲”のような関係で、切り離せるものではないんですね。
例えば、何事につけてもすぐに「自分が悪いんだ、自分が悪いんだ」って、自分を責め裁く想いの癖が、人と接しているときに劣等感を感じてしまって、「自分なんて、自分なんて」という心の動きになっています。
心の動きをちょっと離れて観察していると、自分の心の動きなんかを見ていて「面白いな」って思うんですけど、人に対して卑屈になっているときというのは、それは表面に見えている心の動きなんですけど、それをじっと観察していると、卑屈だけじゃない色んな自分がそこにくっついていて、いろんな性質の多面的な自分が存在していることがわかります。
例えば、卑屈になって人に対して引け目を感じて「自分なんて駄目なんだ」って思っている自分が表面に現れているとしたら、別な角度から自分を観ると、「その人より上でありたい」と思っている自分がいるんです。他人と自分を比較して、「人より上でありたい。でも上じゃないから悔しい」みたいな自分がいたりする。
また、自分を卑屈に見ている自分がいるということは、これはわかりやすい話なんですけど、逆の自分がいるということでもある。自分にさげすまれている側の自分もいるんです。私なら私の中に、人に対して引け目を感じる想いの動きがあれば、私が私をさげすみ、また別面の私は、自分にさげすまれている。
一時が万事そうなんです。愛されていない自分と愛していない自分、赦されていない自分と赦していない自分、そういう両極の自分を、周りの人が鏡になってくれて、その人に対する想いの動きとして、自分の心の中を見せてくれているんです。
普通にそういうことを考えなければ、人と人が接したときに、例えば、極端な例で言えば、「悪口を言われました」「いじめられました」ってことはわかりやすいと思うんですけれど、被害者は「自分に非はない、相手が悪い」と思うんですけど、真理に繋がるような人は、もう…ね、一筋縄ではいかないんですね。
それだけじゃない。人からそういうふうにされたら、「自分が悪いんだ」「自分が悪かった」というように、想いを自分の心の中に押し込めてしまおうとする心の動きをする場合があります。そういう人がいらっしゃるんです。
それは一見して「何も悪いことじゃないんじゃないの」って思えるかも知れないんですけど、卑下と高慢のような心の動きにおいて、高慢になるのは良くないと誰でも思いますけど、卑下もよくないと思わない人が、真面目な人や善良ないい人の中にいるんですね。
悪いことだと思っていないからこそ、自分を卑屈に見て責める。そのように、自分を卑屈に見ているという状況が、実は“自分をいじめている”、また逆に、“自分にいじめられている”という両極の自分を心の中に発生させているんです。
これはわかりやすい例ですけど、そういう心の動きが自分の中にあるケースでは、表面的に見ると、周りの人から悪くされたって思いやすい。人の言動行為で傷つきやすくなるんです。なんで断言するかっていうと、私がそういうことをもう数知れず経験してきたからです。
私は前にも言ったかもしれませんけれども、人のせいにする天才だったんです。人のせいにせずにはいられなかった。自分を正しい方向に導けなかったんです、昔…。
だから人のせいにすることで、自分をかばうようなことをしていたんですけど、実はそれは、相手がいいでも悪いでもなくて、相手が何をしたってそれは自分を犯すものではなくって、実際には、自分が自分を踏みにじっていた、自分が自分を傷つけていた、自分が自分をおとしめていたという状態だったんです。その逆の心の動きも含めて、私の心の中でずっと長い間、同じようなところをグルグルグルグル廻りながら何十年も過ごしていたんだなというように、今は思って観ています。
守護霊様は私達と常に一緒にいて、皆さん今一人一人画面に映ってらっしゃる一人一人のここ(肩のところ)なのか、ここ(頭のすぐ後ろ)なのか、それともちょっと二、三メーター上なのかわからないですけど、一緒に存在しておられます。
そして、守護霊様は片時も私達のことを目を離さないで、心の動きを、もしくは口から発する言葉を、もしくはその人の行動を、神聖に一致したものにしようと思って、一生懸命に波動調整して、導いて、守って、サポートしてくださってるんですけれども、なにぶん私達は、守護霊様のお顔が見えない、姿が見えない、声も聞こえない。
聞こえない状態、見えない状態が続くと、守護霊様と一緒に二人三脚で生きているということを忘れて、「自分で生きてるんだ」「自分で歩いてるんだ」「自分で食べてるんだ」「自分で喋ってるんだ」というふうに、勘違いをしてしまいがちです。
5月9日に私59歳になるんですけれども、年を重ねれば重ねるほど、人間は周りから注意してくれるような人が減っていって、変な信念に凝り固まる人も出てきます。「そうはなりたくないな」って思って、人から言われる言葉は素直に聞こうと思っていますけれども、それがかなりの確率で守護霊様の導きだったりするんですね。
ついつい、例えば私だったらいつも自己中心的に、「俺が、俺の、俺を、俺に…」って思ってたら、人から何か言われたら面白くないと思います。「なんで、この人こんなこと言うんだ」って思ってしまいがちなんですけど、そことは一線を引いて、そういう自分を観察している奥の意識に立っていると、そういう周りの人の言葉が「これは守護霊様の言葉だな」と気づくときがあります。
家庭の中でお互いにそういう思い方が出来れば家庭調和になりますし、外の人ともそういうふうに接することができたら、人間関係で悩むこともなくなってくると思うんですけど、人生はそんなに単純にできていなくて、どうしても苦手だ、どうしても好きになれないって人がでてくる場合がありますし、それがもっと進んで、どうしても嫌いだって人が出てきたりとかっていうことがあります。
私もその道のプロフェッショナルというぐらいに、その経験をしてきましたけれども、苦しいんですよね、そのときは…、人とうまくいかないことが…。多分、ここにいらっしゃる半数以上の方はもう、「人とうまくいかないなんてことは今はないよね」って思って聞いてらっしゃると思うんですけれども、でも心が練り上がってない、魂の花が開き切っていない段階では、そういう人間関係の苦しみのような状況があります。
ごめんなさい、1時50分ですね。ちょっと休憩を挟みましょう。今53分になるから2時3分まで、10分間、休憩を挟みます。その間、画面を、皆さんの姿が見えないようにしておきますので、どうぞ心おきなく休憩してください。スライドの画面にしておきます。
《途中休憩》
それでは2時3分になりましたので始めます。さっきのお話は、本当は、今日はするつもりはなかったんです。“自分に向け直す”っていういつもの話を今日はしないで、別な観点からお話しようって思ってたんですけれども、結局そこをやらないと幸せになれない。逆に言えば、それをやれば、本当に把われを手放して自由になれる。
ここに参加しておられる方の中で、私、実際にこの一週間でお話した方がいらっしゃいます。「もうね、最近はいいことしかないの。幸せしかないのよ」って方が何人もいらっしゃいます。またそれは、この勉強会と関係ない方からもそういう話は伝わってきています。だから今、この2024年、みんなで意識進化しているんだと思います。
ちょっとですね、今、別にどなたかっていうふうには言わないんで、今、悩みを抱えていらっしゃる方が、それを乗り越えてゆけるように、ちょっと1回、みんなで神聖復活の印を組みたいと思います。
みんなが自由な心で、幸せに生きていけるように、「もういいことしかないんだ」っていう状態に一人一人の意識、私達の意識がなっていることをイメージして、神聖復活の印を1回組みます。
《神聖復活の印を一回》
はい、ありがとうございます。メールにも書いたんですけど、一週間前の動画の祈りの会で、3段階で行う自然へのお祈り、地球世界への感謝を行なって以降、空気・水・大地・植物・生き物、いろんな地球の要素…、人類もそうなんですけれども、そういういろいろな存在との関わり方に対して、私の頭の中にある「こういうものなんだ」っていう思い込みが、この一週間でペロンとめくれたような感じでおります。
一番びっくりしたのは、前回の日曜日、6日前の朝です。うちの人と「公園へ散歩に行こう」といって家を出た瞬間の一歩、二歩と足を踏み進めていく…、その感覚がまず違っていたんですね。例えば、右足を出したら、地球のエネルギーが自分の足の裏を通して、もうグァングァンと入ってくるんですね、また左足を出したら、もう本当にこの大地と自分が一体になってるような感覚がしてくる。
その一歩一歩が、今までは無意識に歩いていたけれども、一歩踏み、一歩踏みっていう、この歩くっていう行為の中で、地球と大地と肉体の間で、ものすごい交流が起こっているんだなっていうことを感じながら歩いていました。
そうやって歩いていると植物、どこかのおうちの散歩で歩いているワンちゃん達、それから風、空気、みんな命の交流が行なわれていたんだっていう…、別に私、霊的でも何でもないです。でもそのときに、ものすごくそういうことを感じてました。
自分でもあまりにもびっくりして、その場でうちの人にその話をすることはできなかったんですけれども、「どうしてそんなふうになったのかな」って考えてみますと、もちろん一週間前の動画による祈りの会がきっかけかもしれないんですけれども、よくよく考えてみましたら、私達1989年か1990年頃からか…、もう30年以上も地球世界への感謝を行ない続けてきてるんですよね。
海さん・山さん・大地さん…、水でも植物でも動物でも空気でも、いろいろな自然と生物に対して、「ありがとうございます」「ありがとうございます」とやり続けてきた。その感謝が今、実ってきているんじゃないかしらという感覚を受けました。
私自身、他の人に対して「ありがとうございます」って言うことを徹底する練習を2010年からやり始めた後に、苦手な人も嫌いな人もいなくなるっていう経験をして、感謝の言葉、「ありがとうございます」という言葉は、感謝の対象と自分が一つになる呪文のようなもの、魔法の言葉だと思って、「ありがとうございます」という言葉を、例えば、「守護霊様、ありがとうございます」と言えば、それは守護霊様と一体化してる行ないになっているんですね。
私達の肉体がそれを知っているかいないかにかかわらず、「ありがとうございます」っていう言葉を使い続けることで、私達はそういうふうに変わることができる。それを自然や生きとし生けるものに対して行なってきた私達は今、もしくはこれから、どんな自然とも、どんな生物とも、いのちの響きの中で一つに結ばれているという実感の中で生きていく段階に入っていくんじゃないかしらと思っております。
そういうことを踏まえて、地球が進化する前に人類の波動調整として何かが起こるかもしれないというときに、例えば大きな地震が来るっていうときに、大地に対して祈っている私達、地球に祈っている私達は、大地さんと一つに結ばれているわけです。それで、大地が大地そのものである私達を犯すわけがない、ということになります。
どういうことになるかというと、私達が住んでる土地の地震が弱くなるということが起こるんじゃないかしらって思ってます。別に起こらなくたって、それはそれで構わないんですけれども、私達が大地に犯されることはない、大地が私達を犯すことはないっていうことを確信のように思っています。
また、海さんに対しても、私達はずっと「海さん、ありがとうございます」ってやり続けてますから海さんは私達のことを認識してるんです。同じいのちの仲間だと。だから海が海そのものである私達を犯すことはない。「津波が来るよ」っていうときが仮にあったとしても、私達のところは被害がないとか、被害がものすごく弱く済んだとか、地面が濡れるぐらいで済んだとか、そういう状態、そういう形になって、自然界や生きとし生けるものが、私達を守ってくださるのではないかしらと思っております。
それに加えて私達は、印を組んでないときも、祈ろうって思わなくても、祈りが心の中で鳴り響き続けている。地球を調和させる祈りの言葉が発声されるスピーカーのように、この響きが内(なか)で鳴っている、祈りの響きが私達から常に出ている。それに加えて、神聖復活の印を組んでいる。これはもう、本当に他人事じゃないんですけど、「ものすごいことを私達はやっているんだな」っていうことをしみじみと感じています。
印を組むときに(といって立ち上がる)、皆さんは立たなくていいです。印を組むときに、椅子に座っても正座でもいいんですけれども、そのときの状況に応じて、座っても立ってもどちらでもいいんですけど、基本としては立って行なうということだと思うんですけれども、今こうやって立ったときに、二本の足があります。この足の裏で私は地球さんと繋がっています。
私はそれを忘れないように、足の指で足元の絨毯を地球の大地だと思って、足の指でつかむようにしています。それによって大地さんと交流している。また、背筋を正して組みますが、そうすると頭頂のチャクラに天の光が入ってくる。それは、最初のこの動作(両手を左右上に広げた状態)のときに、主に手に宇宙神のいのちの大元のエネルギーを手の平でキャッチしているんですけれども、この状態(逆さ如来印の状態)のときに、私達の肉眼には見えてはいないけれども、頭の後ろに後光が射している状態のときに、組んでいる手と頭頂の間でジンジンしているんですね。ものすごく光が溢れている感覚です。
次にこう持ってくる。(胸の前で両手の平を上に向けている状態)これは、胸の前で手の平の上に見えない球体があって、それを支え持っているっていう状態だって教わってますけれども、この見えない球体を手の平の中に閉じ込めるように、指先と指先をくっつけてお腹の前へ降ろしてゆく。この状態のときに、圧縮された光の球体が出来上がる。それをお腹のところへ持っていく。
そうやってお腹の前へ降ろすときに、「付けた指先にずっと力を入れてください」って私は教わりましたが、お腹に持ってゆきながら、グーッと指と指をしっかりと付けて持っていったときに、臍下丹田のエネルギー、もしくは下の方のチャクラのエネルギー、いわゆる肉体の物質的なエネルギーと、印の動作でキャッチした生命の大元のエネルギーをここ(丹田の前)で混ぜ合わせる、ミックスする、ブレンドするという働きが、お腹の前で止めたときに行われる。
それを今度は、合掌の状態で上にあげながら、さらに手の平の内(なか)に圧縮する。そうやってミックスしたエネルギー、肉体のエネルギーと宇宙のエネルギーを合わせたものを手の平に込めて、体の前で腕を広げて戻す動作を通して放出する、放射する。
私は最初の頃は、深いことを考えないで「教わった通りにやろう」と思ってやってたんですけど、「ものすごいことが起こってるんだろうな」ってことがだんだんだんだん、この何年のうちに、もう7年ですか…、7年のうちに思われてきて、最近毎日朝晩行われている。ズームの祈りの会で皆様が組んでるこの姿を見ていて、最近本当に思うのは、もうみんながものすごく深まっている。皆さんのエネルギーがものすごく強くなっているということです。
以前から、聖者の集まりだと思って見てましたけれども、最近「この印のエネルギーがものすごいことになっているな」っていうことをまざまざと実感しております。それを朝晩、参加しているどなたかが、2018年9月6日から始まったこの祈りの会で何回印を組んだって数えてる方がいらして、私に教えてくれたんですけど、この祈りの会で、一人当たりもう3万回を超えているということです。
YouTubeとZoomと合わせたら(FAXで参加の方も含む)、250人ぐらいいらっしゃるんでしょうか?だから、3万回掛ける250人、ちょっと計算の答えがすぐに出てこないですけど、もうそれぐらいの人が集まってこの印を組んでいるっていうのは、ものすごい光を地球に振りまいている、もしくは地球がものすごい光で取り巻かれているっていうことなんだと思います。
それは人間だけ、人類だけじゃなくって、他の生物にも、空気にも水にも大地にも入り込んで、自然界なら、人間が汚(けが)してしまったものを修復する元の力になっている。生物に対しても、人間たちが自分達の住むところ、楽しむところを開発するために、動物の住んでるところをどんどんどんどん追いやって開発したがために、絶滅していく生物もいれば、もしくはもう本当に「生きづらい世の中だね」って思いながら生きている生物もいると思います。
熊さんなんて、その最たるものですよね。人里に降りてきて襲われたとか、冷蔵庫開けられたとか、ニュースがありますけれども、彼らはただ生きるためにやっている。そのような、人間が虐げてきた動物達に対しても、神聖復活の印のエネルギーは、彼らを生かすエネルギーとなって伝わっているんだと思います。
それが別に霊的に見えるわけでも何でもないんですけれども、まざまざと最近実感するようになって、本当にすごいことだなっていうふうに思っております。「そろそろ時間じゃないですか」とうちの人から言われましたので、本日はこれぐらいで終わりにして、神聖復活の印を最後に7回、4秒ぐらいのペースで行ないます。
《神聖復活の印を七回連続》
ありがとうございました。今ではたくさんの方が、「もう悩みなんてないよ」って思って、それでも「自分を磨き高め上げるために勉強会に出ているんだ」って方が多いかも知れないんですけど、もしかしてお悩みを抱えておられて、何とか乗り越えたいって思っておられる方がいましたら、私の中でいつも鳴り響いている言葉があるんですけど、もーう少しです。もーう少しですべてが解決する。もう少しで、無限なる幸せって今まで言葉でしか言ってなかったことが現実の自分の体と心に広がって来る。
今週、どなたかから聞いたような、「もう幸せしかない」「もうありがたいことしかない」「いいことしか起こらない」という状態になってゆくと思います。「思います」というか、必ずそうなっていきます。
ですので、一緒に乗り越えてゆきたいと思いますんで、みんなで助け合って、互いのラダーになり合って…。インドのニップンさんでしたかね、ラダーシップって言葉を提唱された方。ラダーっていうのは、日本語にすれば「梯子(ハシゴ)」です。
お互いがお互いの梯子になっている。天にかける梯子(天と地を繋ぐ梯子)に自分がなる。自分の体を投げ出して、「はい、どうぞ私の背中の上を歩いていって登ってください」って、お互いがお互いにそういうふうにし合って、もう来年の暮れには、「もう、ねぇ、悩んでたのが嘘みたいだね」って、みんなで笑い合えるようになってゆきたいと思いますんで、よろしくお願いします。
はい、これで終わりにしましょう。皆様のマイクをオンにします。ありがとうございました。