20324年6月15日(土) 勉強会
それではまだ入られる方がいらっしゃるかも知れませんけれども、6月15日の勉強会を始めます。さっきの始まるときに、タイトルの画面が出ていたと思うんですけど、今日のメインテーマは【神聖の言語化能力を開発中する】ということです。後で詳しくお話をしていきます。はじめに、今入っておられる方々だけで、神聖復活の印を3回連続、ご一緒に組ませていただきます。
<神聖復活の印 三回連続>
今日、ご参加くださっている方の中には、この一週間ほどの間に、富士聖地から郵送で送られてきた『新しい講師の課題』をすでに受け取って、日々の生活の中で取り組まれていると思います。講師ではない方々におかれましても、日常生活の中で普通に応用できるお話ですので、ご一緒にお聞きください。
<画面に資料を表示する>
はい、これですね。この『新しい講師の課題』には、次の四つの項目が書かれていました。
・神聖な体験を振り返り、それを伝える場をつくる。
・神聖な自分を大切にする時間をつくる。
・周りの方の神聖を大切にするコミュニケーションを心がける。
・常に自らの神聖な部分を引き出すことを意識する。
この一番目は、神聖な体験を言葉として表わす力を引き出して、それを磨き高め上げることで可能になります。二番目は、私たちひとりひとりが自分を喜ばせる時間を持ち、自分にご褒美を与えるということですね。人生を楽しむということです。三番目は、周囲の人々の短所や欠点ではなく、生命の本質である神聖を認めて生きるということです。四番目は、日々の暮らしの中で、いかに自己限定を薄めてゆきながら、内在する無限なる能力・叡智・創造力や、神聖に基づいた愛と調和と真理の力をいかにして引き出していくかいうことですね。
今云ったこの四つの項目のうち、二番目から四番目につきましては、4月21日の練成会に出るための“事前の一週間の課題”でしたので、講師の方々はもうすでに行われています。で、今回初めて言葉として打ち出されたのは、一番目の「神聖な体験を振り返り、それを伝える場をつくります」という部分です。
地球の平和を心から祈り、神聖復活の印を組みつづけてきた私たちは、それがどんな些細な経験であっても、神聖に至る何らかの体験をしてきております。私、全国の方々とお話しする機会があるんですけど、「いや、私なんて、そんな経験はありません」とか、おっしゃる方が時々いらっしゃるんですけど、神聖の体験、神聖に至る体験…、それは気づきかも知らないですし、他人との関わりの中で、今までになかった変化が起こったとかという経験かも知れませんし、いろいろな形で、皆さんお一人お一人が必ず経験していることだと思います。
しかし、自分を磨き高め上げてきたどのような尊い経験の歴史も、どんなに素晴らしい神聖なる気づき・直観・ひらめきなどの体験も、それらをその場・その時にメモしたり、あとで振り返って言葉として記録しておかなければ、それらの神聖なる体験は潜在意識の海に流れ出て、薄まってしまい、後でよほど意識的に思い出そうとしなければ、それを言葉にして思い出すことも、まして人に伝えることも難しくなってまいります。それはどうしてかと申しますと、神聖なる体験を言語化する取り組み、言葉として表現する取り組みをしていなかったからです。
では、どうすれば、それができるようになるでしょうか?俳句や短歌をつくったり、詩を書いたり、日記を書きつづけたりするように…、人によっては小説書く人もいらっしゃるかも知れない…、そのように、ご自身の歴史を振り返りながら書き表わしてみることです。
本日、書くものをご用意くださいとお願いをしたのは、ご自分の神聖なる体験の簡単な年表をつくって、それを時系列的にすっきりと思い出せるようにするためです。初めは表面的な記憶だけで構いません。年表のように、ただあった出来事を書いていきます。ちょっと参考資料を出します。
<私自身の年表例を画面に表示する>
こんな感じです。まったく同じじゃなくて構いません。この太字になっているところが、いつのことかということです。こんなに細かく書かなくても、十年、二十年単位で書いてもらっても構いません。はじめに、いついつと書いて、こういうことがあったということを書きます。その下に、自分の立場、いわゆる肉体想念がそのときに何を思っていたかを思い出して書きます。(思い出せない場合は今の感想を書く)次に、守護霊の観点で書きます。「守護霊様だったら、このときの自分にその体験をどういう気持ち、どういう意図でさせたんだろうな?」って考えて書いてみます。
そのように、過去にあった出来事を、自分の立場からと守護霊の立場から、一行で構いませんので、簡単に書きます。長く書ける人は長く書いてもいいんですけど、簡単に書くのが楽でいいと思います。また、後で長くしてもいいです。例えば、私の場合ですとこういう感じになります。
1972年(7才):以前に住んでいた星(マルデック)が爆発して、宇宙空間に浮かんだ状態で、大人たちに対する憤りや、家族がみな死んでしまった淋しさから号泣する夢を見た。
肉体想念:とても淋しく、星を無くすような意識と科学の使い方をしてはいけないと強く思った。
守護霊の観点:この子が成人後に、「地球を平和な星に導くための宇宙的な地球救済活動」に従事して、今生の天命を果たすためのきっかけとして、この夢を見させた。
1975年(10才):弟と二人、近所で遊んでいたときに、空飛ぶ円盤を見た。
肉体想念:とてもビックリして、本当に腰を抜かして歩けず、四つん這いで家に入り、母親に報告したことを覚えている。
守護霊の観点:この子が将来、自分のルーツを知るために必要な体験として、円盤を見るという経験をさせた。
1978年(13才):心理学に興味を持ち、主に多湖輝さんの著書を読みあさった。
肉体想念:自分に自信が持てず、人付き合いもうまく出来ないため、心の在り方について探求する心が起こったのだと思う。
守護霊の観点:この子が神聖復活するプロセスとして、心の学問に眼を向けさせた。
1980年(15才):隣町の本屋で、村田正雄著『空飛ぶ円盤と超科学』を見つけ、むさぼるように読む。
肉体想念:それまでにも、いろいろなスピリチュアル関係の本を読んできたが、どれも胡散臭く共鳴できなかったが、この本は素直にその通りだと思え、「世界平和の祈り」を始めるきっかけとなった。
守護霊の観点:この子が神聖復活するきっかけとして、この本に出会わせた。
1985年(20才):白光から日本国技館で行なわれた『世界平和を祈る一万人の集い』の招待状が届き、躊躇するも参加した。
肉体想念:その頃は、宗教嫌いだったが、心の声が行くことを強く勧めるため参加した。
守護霊の観点:この子が神聖復活する道のりとして、必要な体験であるため参加させた。
こんな感じで書いていきますが、こんなに細かい区切りじゃなくても、十歳のとき、三十歳のとき、五十歳のとき、七十歳のとき、みたいな大きなくくりでもいいと思います。ご自分の通ってきた道のりの中で、神聖復活のための何かキーポイント、ターニングポイントになるような大切な体験を、皆さん、きっとされてると思うんです。
人に見せるわけじゃないんで、心おきなく書いてみてください。澤田さんのグループは、もし皆さんが紙と書くものをご用意されていなかったら、そこにいらっしゃる皆さんで簡単に体験をシェアし合う形でも構いませんので、他の皆さんが書いている間、お互いに顔を見てお話しをしていてください。
ここからは、書きながら聞いていてください。顔は上げなくてもいいです。紙を見たままでいいです。これを書き表わすことで、一番最初に人前で話すきっかけができます。
各地で皆さん、お祈りの場をつくられていると思うんですけど、そこに例えば、お話をしてくれる人を呼んで、何かお話してもらうときに、だいたい一番初めのときというのは、自己紹介も兼ねて、ご自分の今日に至る経験をお話されるケースが多いと思うんですね。「私はどこの生まれで、どういう経験をして、これこれこうで今日に至りました」っていうようなお話になっていると思います。
神聖復活に焦点を合わせて、ご自分の歴史を書き表わすと、このお話がすごくしやすくなるんです。また、なぜ今、自分がこういう状況にあるのかということも、手に取るようにわかりやすくなります。
ここで大切なことは、神聖に至る体験を言語化するにあたって、神聖に至る体験っていうのは、いいことばかりではないということです。そのときは、ものすごくつらかった、嫌だった体験が、こうやって何十年も経って振り返ってみると、実は「あの経験をしたから今の私があるんだ」っていう振り返り方があると思います。もしそう振り返れるんであれば、その“思い出したくもない記憶”も、神聖に至る大切な体験になります。
今の自分が“そのときの心境”を卒業していれば、その嫌な体験も嫌な気持ちにならないで、サラサラ、サバサバと人にお話することができます。それは、失敗談かも知れませんし、人からいじめられたことかも知れません。逆に、自分が加害者として、人を徹底的にやり込めた経験かも知れません。できればあまり思い出したくないという経験は、「実は自分が立派になるために通らなければいけなかった、必要な体験だったのだ」いう捉え方をすれば、それも立派な神聖に至る体験だと思います。
大事なことは、「人に自分を良く見せよう」、という気持ちで書くんではなくって、裸の心、ありのままのそのままの自分を、正直に見つめて書いてみることです。今、正直に書いてみて、今の自分がそのときの心境を卒業していれば、その書いた文章を読んで、嫌な気持ちにはなりません。「このときはこうだったよね」って、クスッと笑ってしまうような感じです。
そういうふうにして、ご自分の年表を書くときに、それを“自分の立場”からと“守護霊の立場”からの両面を書いてみることで、今日に至る自分の神聖復活の歴史というものを、客観的に見られるようになります。また、客観的に見られるので、人にお話することもできるという状況になるんですね。
今日は、この年表を全部書ききらなくても、後で書いてもいいです。今日は、年表を書くという取り組みだけ行ないましたけれども、その他にも、『神聖復活ノート』みたいな、何か大学ノートを一冊、用意して、自分の体験を記録するという方法があります。「今までこういうときに、いつもここで引っかかっていたのに、今日は引っかからなかった」というようなことがあったら、それを書くんです。何年何月何日、これこれこういうことがあった、こういう体験をしたというのを、メモしてゆくんです。
覚えてらっしゃる方もいらっしゃるかも知れませんけど、神聖復活の印が2017年7月2日に天の世界から降ろされましたけど、その前の約十年間、2006年ぐらいからだったと記憶してるんですけれども、一年一年毎年変わる、その年限定のご神事がありました。その中で、2010年前後だったと記憶しているんですけれども、「小さな成功体験をメモする、ノートに書き留める」というようなご神事がありました。あれを今一度やるということですね。
この2024年、新たな気持ちでもって、改めて小さな神聖の体験をノートに記録してゆく。もう時代が進んでいて、「今の私はノートなんて使わないわよ」っていう方もいらっしゃるかも知れません。そういう方は、携帯電話のメモ帳アプリを使って、そこに記録するという形でもいいと思います。私も携帯のメモ帳アプリに、もう何百じゃきかないですね、何千くらいか入ってるかも知れない。ものすごくいっぱい記録してます。
そのように体験を書き留めてたくさん書きたまってくると、これを後から何回も何回も読み返すんですけれども、自分の神聖に確信が持てるようになります。自信がついて(極まって)くるわけです。自信を極めた人は、次に確信の段階に入ります。そうして確信を深め深め深め深めてゆくと、確信を極めるときが来ます。
そのようにして確信を極めた人は、次に神聖が当り前で何の努力もいらないという形になります。「自分が存在しているそのままが神聖だ」「神聖、当たり前じゃない」「何を今さら」って、神聖が当然だという意識になります。これは、他人に対して「神聖、神聖」って見ようとする以前に、自分の神聖を0.1ミリも0.1%も疑わないで見られるようになるということです。
そこへ至るまでの間に、ちょっとでも自分の神聖に対する疑いがある場合は、神聖を当然認識する世界に入れないので、自信をつける段階からはじめて、次に確信を極めて、最後に神聖を当然認識する世界に入ってゆきます。
一朝一夕に、今思ったからもう今日中には、神聖当たり前って思えるかといったら、実際問題としてはそうはならないんですね。階段を一段一段、確実に踏み歩いて登ってゆくように、やるべきことをその段階その段階でコツコツコツコツと積み重ねていった先に、神聖が当たり前という“意識の大海原”が開けてきます。
今日、書いていただきましたご自分の簡単な神聖復活の年表は、この後、絶対に人前で話すときに役に立ちますから、大切に取っておかれたらいいと思います。人の話を聞いていて、どういう話が人の胸を打つか、例えば私が聞く立場だったら、何が私の胸を打つかっていったら、その人の飾らない“ありのままの体験”なんですね。
それは、必ずしもスマートじゃないかも知れない。かっこよくないかも知れない。不器用だったかも知れない。だけど、その人が自分の体験を飾らないでお話しされているときに、私はその人の経験を感動を持って共有することができます。そうではなく、明らかに「この人、自分を良く見せようとしてるね」っていうお話を聞くときには、眠たくてあくびが出てきます。
これから神聖復活の輪が世界中に広がってゆくプロセスで、私たち一人一人は、世界人類に対してとか、たくさんの人数相手にお話しする機会はないかも知れませんけれども、例えば家族、例えばお友達、近所の人、職場の仲が良い人、ご縁ある方々などに、神聖の体験を伝える機会がこれから必ず出てくると思います。
神聖復活のムーブメントは、もちろん日本から世界に広めていってるんですけれども、今、日本の人で神聖復活を意識して生きている人は一万人もいないと思います。それ以外の日本の人々に「神聖を復活させなきゃいけないんだな」「神聖が大切なんだな」っていうことが知れ渡るきっかけは、海外の動きが逆輸入される形で広まってゆきます。そのことは昔から云われていますけど、神聖のムーブメントが海外で起こって、それが日本に逆輸入される形で、「デバイスパークってなんだ?」「神聖復活ってなんだ?」「そもそも神聖って何なんだ?」っていうふうに、日本の一億何千万人たちが思う日が来ます。
そのときに、「神聖ってね、こういうことなのよ」「神聖復活っていうのは、これこれこういうことをいうの」とお話ししてあげられる人が必要で、それが私たちなんだと思います。そのときに、「いやー、私は人に話すのは恥ずかしいからいいわ、それはパスするわ」というのは、守護霊・守護神様、救世の大光明の神々様、宇宙天使群の皆様が悲しまれると思います。もちろん向き不向きがありますから、そんなに積極的に人に話すってことじゃなくても、身の回りの人たちに話すというぐらいは、私たちの最低限の命のお仕事として、天命の一部に入っているんだと思います。
私たちは、人にお話しすることで広げていく人、おうちで一人でお祈りすることで神聖の響きを広げてゆく人、ピースポールを立てて廻ることで神聖の響きを広める人などのように、それぞれの持ち味、役割、天命というものがありますけれども、少なくとも講師の方々は、「人に自分の体験をお話できるようになってください」ということで、『新しい講師の課題』というのが出てきたのだと思います。
ですから、さっき書いていただいた年表を本当に完成させて、自分が人前でお話するときへ向けて、“過ぎ越し道”を頭の中で整理するための資料として使ってみてください。私はいろんな方に、自分がどうやって通ってきたというお話を、何回も何回もしてるんで、書いたものを見なくても言葉が出てくるんですけど、でも一番はじめの頃は、やっぱり書き出しました。
話すことが頭の中で漠然としていて、「あれどうだったかな?」「こうだったかな?」っていう状態ですと、やっぱりお話ししづらいんですね。だんだんと慣れてきて、言葉を発することが上達してきますと、原稿を書かないで、その場にいる方々のお顔を見て、その場にいる方々にピッタリな話題のお話しをすることができるようになるんですけれども、慣れないうちは、せめて内容を箇条書きにして書いておいてから臨むと、うまくお話しすることができるようになると思います。
私が電話で直接お話しする機会のある方には、もう何人もの方に伝えているんですけれども、土曜日の夜に行なっている『神聖で繋がり合う日』も、いずれは私だけでなく、いろいろな方がご自分の神聖復活の経験を経て得た境地を、たくさんの方々と一緒に共有する場になったら素晴らしいなと思っております。
それは、いつも富士登山に例えて話すんですけれども、私が仮に、東から富士山に登る道を歩んでるんだとしたら、西から登ってる人もいらっしゃるでしょうし、南から登ってる方もいらっしゃるでしょうし、北から登ってる方もいらっしゃると思うんですね。それだけではなく、南東方向、北西方向とか、人それぞれ、同じ道ってないんじゃないかと思うぐらい、人それぞれ違う道から登ってると思うんです。
この話は、神聖復活するということを、富士登山に例えた話です。その場合に、東から登っている私の話ばかりですと、西から登ってる人たち、南から登ってる人たち、北から昇ってる人たちがあんまりピンと来ないってことがあると思うんです。私自身は、人様にお伝えするときには、なるべく「普遍的に」とは思っているんですけれども、それでも登る道や方角が違うと、伝えようとしていることがわからないってことがあるんですね。
それが私だけではなく、西から登っている人の体験、南から登っている人の体験、北から登っている人の体験のように、いろんな方角から登っている人の話を聞くことができると、私の話ではわからなかった方が、「この人の話だったらよくわかるな」って思うようなことが、きっとあると私は思っております。
なので、「いろいろな方に土曜日の夜のプログラムを担当していただけたらいいな」「そうなったら素晴らしいことだな」と思っています。これはもうぜひ、他人へ向けた話、他人事(ひとごと)だと思わないで、ご自分のこと、自分へ向けられた神々からの言葉だと思って聞いていただきたいと思いますので、どうかよろしくお願いします。
1時46分になりましたので、55分まで休憩の時間にしたいと思います。お茶を飲むでも、お手洗い行くでも、用事の電話をするでも、ご自由に時間を使ってください。また画面を最初の画面にしておきます。休憩中は皆さんの姿が見えないようにしておきます。55分になったら始めますので、どうぞ休憩に入ってください。
<休憩時間>
はい、それでは55分になりましたので、第二部を始めます。第二部のテーマは、『今を真剣に生きて、把われを手放す生き方をする』ということです。
地球人類全体が、「我々はみんな神聖な存在だったんだ」という真理を思い出すそのときが、いよいよ直前まで迫ってます。そのときを迎えるにあたって大切なことは、人類に先駆けて真理を思い出した、もしくは思い出しつつある私たちが、この大切な一瞬一瞬の時間をいかに活用して、過ごしているかどうかだと思います。
この活用という言葉は、「活かして用いる」ということですね。時間を活かして用いる…。私たちは、思い込みを捨てて、今を真剣に生きることで、他人に振り回されることがなくなります。ですから、生きていく上で根本的に大切なことは、その時々に感じた気持ち、その時々のフィーリングに引っかからないで、どんな出来事や、他人の言葉や振る舞いをも、サラサラサラサラと流して過ごせるようになることです。
それを実際に、自分自身の生き方の中に落とし込むためには、常に守護霊意識を自分の意識にして生きることです。これは守護霊様の心を自分の心として生きるということであります。どうやったらそれができるようになるかといいますと、守護霊様への感謝、たゆみない感謝を、日常生活の中で徹底的に繰り返して行ない続けることで身につけることができます。
もっと具体的にいいますと、皆さんやっていらっしゃると思うんですけれども、「守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。」という言霊を繰り返し思い、声に出し続けるだけです。他に何かいいことを言おうとか、そんなの必要ありません。ただ愚直にそれを繰り返す。
「ありがとうごさいます」という言霊については、前にもお話ししてるんですけど、私たちが「ありがとうございます」というとき、この言葉の響きが感謝の対象と自分を一つに結びつけます。感謝の言葉は、感謝の対象と私たちを結びつける魔法の言葉になってるんですね。
ですから私たちが、「守護霊様、ありがとうございます」と言うときには、守護霊様の心と自分の心が一つになっている。もし気持ちが伴わないで口先だけでやっていたとしても、守護霊様が手を差し伸べてくださっているので、私たちが「ありがとうございます」という言葉で手を伸ばすと、守護霊様が伸ばしてくださった手と自分が伸ばした手がパッと繋がります。そうして、自分の思うこと、語ること、行なうことが、守護霊様のお考えと違いのない、まったく同じ状態の自分に変貌していくということになります。
『今を真剣に生きて把われを手放す』というこのテーマで勘違いしやすいことは、「把われを手放すことができたら、今を真剣に生きられる」て思ってしまうことです。それは、今ピンと来た方もいらっしゃるかも知れないんですけど、「人事を尽くして天命を待つ」という言葉と、それをひっくり返した「天命を信じて人事を尽くす」を同じに捉えるような形になります。
「人事を尽くして天命を待つ」のと、「天命を信じて人事を尽くす」のはまるで違います。そのように、「把われを手放せたら真剣に生きられる」というのではなく、「今を真剣に生きることで、把われを手放してゆく」という仕組みになっています。
昭和30年の五井先生のお話だったと思うんですけど、『今を生きるが空なり』というお話がありました。「今を生きることが空なんだ」の「空」というのは、仏教用語ですね。空観の修行とか、空になるとか、いわゆる神我一体、神と自分が一つになった意識状態のことです。
般若心経の中の「色即是空、空即是色」の「空」ですね。「空」というのは、そこにすべてがある。今も、過去も、未来も全部、今この瞬間の中にあります。今を真剣に生きることで、過去が活かされて、未来が明るくなる。
だから今、業想念の思惑に左右されて動くんではなくって、例えば、「こんなこと言ったらこの人に悪く思われるんじゃないかな」とか余計なことを考えないで、守護霊様から来る第一直観に従って、真剣に体当たりで生きてゆくと、後悔してきた過去が、後悔の対象じゃなくなってきます。「あれは必要な体験だったんだな」って思えるように変わります。
それは過去が変わったということなんですね。実際にタイムマシンに乗って、過去へ行って昔の自分にささやいて違うことをさせるとか、ということじゃなくって、過去への見方、捉え方が変わる。それが、過去が変わるということです。今を真剣に神聖を発揮して生きることで、未来が明るくなるっていう話は、説明の必要はないと思います。そういうあらゆる過去と、私たちがこれから歩む未来が、今この瞬間の中にあります。
今、私たちがどう生きるかで、地球の未来が左右されます。良くもなるし悪くもなるということです。ものすごく大きな宇宙の目から地球を見れば、途中でどういうことが起こったって何があったって、必ず良くなります。良くなるしかない。必ず良くなるんですけど、その途中で何が起こってどうなって、っていうことが、今の私たち次第だということなんですね。
宇宙人の方々も、地球の神界の神々も、肉体人類が受けなければいけない未来の厳しい状況をできる限り小さくして、被害をできる限り小さくして、困難な状況をできる限り少なくして、みんなが神聖復活してゆくように、という願いを持たれています。
でも、地球の運命は私たち、地球に生きている肉体人間に委ねられています。地球に生きている私たち肉体人間が本気で変わらないと、地球は良くならないわけです。それを牽引しているのが、神聖復活の印を組んでる人たちなんですね。
「いや、私はそんな大それたことしてない」と思って聞いているかも知れませんけれども、神聖復活の印を組んでいるという、ただそれだけのことで、今までの過去の地球にはなかった、ものすごく特別なエネルギー、宇宙生命の源と地球の肉体人間の肉体のエネルギーがブレンドされた、どんなものにも浸透する超特別なエネルギー、自然・空気・水・山・大地・生きとし生けるもの・そして人類…、どんなものにも浸透する超特別な光をこの神聖復活の印を組んでいるだけで、私たちは振りまいている、放射している、という働きをしています。
だから常に、神々から私たちが受け取る言葉は、「感謝!」「ありがとう、ありがとう、ありがとう…」、そればっかりです。ここでちょっと見方を変えてみると、私たちは時々、「あれ、印を組んでるのに私の心は全然変わらないな」って思う場合があります。
それは変わらないんじゃない、変わってないんじゃなくて、変わっていることを自覚していないってだけの状態です。本当は、誰でも変わっています。変わってない人は一人もいない。私たちは元々が神聖の命を持って生まれてきています。ですから、悪いものがこれから良くなるんじゃない。元々の素晴らしい命の性質を思い出して、表わす状態へ変貌してゆくっていうだけの話なんですね。
だから、「自分は変わってない」って、もし思われる方がいらっしゃったら、世界平和の祈りや神聖復活の印をやり続けると同時に、自分を磨き高めあげる努力を並行して行なうことです。自分の心の把われ(思い込み、こだわり、決め付け、執着など)を手放して、心を軽くしてゆくという取り組みにも、心の目を向けられるといいのではないかしらと思っております。
把われというのは、いつも申しますけれど、こだわりや思い込み、決めつけや執着などの想いの癖です。この想いの癖から自由になるということです。今を真剣に生かそうと思って生きていると、自動的にこの把われを薄くするという取り組みが行われている自分に変わっています。
ここでも最初の話にあった『言語化の力』が、役に立ってくるんですね。自分の状況を言葉で表現することができるということです。これは、短歌や俳句をつくっていらっしゃる方は、わかると思うんですけど、5・7・5なり、5・7・5・7・7なりの形の中に、どうやって季語を入れて、自分の感じた感動を言葉に表現しようかと努力する。そのときに、こう、書いて書いて書いて、何回も書き直して、これならいいんじゃないかって言葉に表わせたとき、ご自分の感動の響きを言葉として表現できたときに、短歌や俳句をつくってらっしゃる方は、もう無上の喜びを感じてらっしゃると思います。神聖を言語化するということは、それと同じことです。
ご自分の神聖を、神聖復活の状況を言葉にするということができると私たちは、自分の神聖にどんどんどんどん自信が深まって、それが確信になって、確信が極まって、神聖が当たり前っていうところに行きます。これは、これから何十年もかけてやることではないんです。今から数ヶ月です。数ヶ月で、自信もなかった人が自信を持ち、自信を通り越して、確信の段階に入り、確信も通り越して、神聖当たり前の世界にみんな入ってゆきます。
謙虚な想いの癖のある方で、「私はまだまだですよ」なんて言う方がいらっしゃるんですけど、もうそんな謙遜のいらない時代に入ってます。「あなた、素晴らしいわね」「神聖が表われているわね」って人に言われたら、堂々と「ありがとうございます」って、笑顔で返せる自分に変わります。
そのためには、そうですね、私の経験ですけど、自分を褒めるっていう練習をするのが効果的だと思います。私は、5年ぐらい前まで、自分を褒める習慣がありませんでした。その頃に、西園寺家のお付きの竹内さん、皆さんは「やっちゃん」って呼んでらっしゃる竹内さんから、よく言われていたことがありました。それは、「斉藤さん、もう自分のことを褒めてあげてくださいよ」っていう言葉でした。
そのとき2020年になる前ぐらいの私は、自分を褒めるという習慣がなかったのです。だから、自分を追い込むんですね。そういう状況を見て、神々様や守護霊・守護神様が竹内さんの体を使って、アドバイスしてくださったんだと思っております。
それから自分を褒める練習を始めたんですけれども、今ではおかげさまで、恥ずかしがらないで、自分を褒めることができます。これは他人に聞かせる言葉じゃないので、堂々と自分を褒めていいと思うんです。一番最初に出た四つの言葉の中の二番目の「神聖な自分を大切にする時間をつくる」取り組みをするのでもいいと思います。自分の人生を楽しむ時間を持つということは、自分の心を喜ばせ、楽しませるだけでなく、他の人を大切にすることにも繋がるからです。
一年に一度でも、自分が喜ぶこと、幸せだと思うことを行なうことで、自分を大切にする習慣を築くことができます。自分が好きなことは何だろうなと考えることも、自分を大切にすることに繋がります。例としては、旅行をする、会いたい人と会う、読みたい本を一日中読むなど、自分が幸せだと思えることをすることです。自分のための時間をとる。自分を褒めつづけるというのは、これと似たような性質の話だと思うんですね。自分で自分を褒める。自分にご褒美をあげる。
私たちの潜在意識の中に、自分の神聖を否定する想い、自分の無限なる能力や創造力を限定する想いの癖が、まだ少しこびりついて残ってます。これを自分の心から手放していく。自分の能力を限定しない。自分がやりたい、これをしたいって思ったことは、必ずできるんだ、そうなるんだって、確信している自分に変わってゆく。
「でも、そうはいっても、どうやったらできるのかわかんない」って思うかも知れないんですけど、そういうときに、もうちょっと奥の自分に入ってみてください。そうすると、ひらめきが出てきます。それは守護霊様からのメッセージです。「こういうふうにしたらいいよ」「こういうふうにしたらいいんじゃないか」っていう、人の声、他人の声として聞こえるんじゃなくて、自分の想いとして現われます。
それをその通りにやってみることです。「いやー、そうはいっても、こっちの方がいいんじゃないか」って、くつがえす想いが出てくるのは、守護霊様のメッセージではありません。これは業想念の答えになります。一番最初にパッと出てきた言葉が守護霊様からのメッセージです。
一番いいのはメモすることです。パッと出てきたら即メモしておく。メモした後に忘れてもいいから、とにかくメモをする。後で読み返すと、「これってやっぱり、守護霊様の導きなんだな」ってことが、だんだんわかってきます。
守護霊様の導きっていうのは、必ずしも肉体の自分にとって都合のいいものではない場合もあります。その場合に「ひらめきの通りにやったら失敗したじゃないか」って思うことがあるかも知れませんけれども、守護霊様・守護神様というのは、先の先の先を観て導かれているんで、当人が失敗だと思う経験が、後々成功の種になっているという導き方をすることもあるというわけです。
まっすぐに成功させた方がいいという場合にはまっすぐ成功させるし、失敗を経てから成功させた方がこの子の心が大きくなると思われたら、失敗と思われる状況を経験することもあります。だから、失敗を失敗だと思わなければ、失敗という認識にとどまらなければ、この世に失敗なんてものはないんですね。
失敗っていうのは、失敗だと思った人が造り出した幻想です。ないんです、失敗なんてものは…。なので、もう何も恐れない。自己限定する想いの癖が薄くなってくると、恐れることが少なくなってきます。把われの記憶がたくさん頭の中に残っていると躊躇します。新しいことをやろうっていうときに躊躇します。それは、エゴさんたちのささやきなんですね。
エゴさんたちは、「自分の居場所がなくなる」と思っていて、我々が神聖復活すると困るんです。だから、そういう「自分が、自分の、自分で、自分に、自分、自分、自分、自分…」って思う自分を抱きしめてあげるような大きな心を自分の中に持つ方法が、「守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます。守護霊様、ありがとうございます」と想い続け、声に出し、感謝し続ける方法です。
守護霊様への感謝を年がら年中、一日中やって生きていると、もう大安心感の中で生きてゆくことができます。もう不安とか恐怖とかが無くなります。ものすごく大きな光の腕に包まれている安心感の中で、自分の神聖を開発し発揮する道を歩んでゆくことができます。
そのうえで何か失敗と思われるようなことがあったとしても、本人がそれを失敗だと思わず、「未来をもっと良くするための経験だったんだな」って思えたら、それを糧にして、もっといい未来を創ることが必ず出来ます。輝かしい未来は、誰かに用意してもらうもんじゃないんですね。
未来というのは、私たちひとりひとりと守護の神霊が一体となった意識で創りあげるものです。そうすることで必ず明るい未来、輝かしい未来、神聖が甦った世界になります。そういう個人が増えることで、世界全体がよくなってゆく原動力になりますので、どうぞ、ご自分の日々なさっていることに自信と確信を持って、お過ごしください。14時26分になりますので、最後に神聖復活の印を皆様とご一緒に、七回組んで終わりにしたいと思います。
<神聖復活の印 七回連続>
ありがとうございます。今、七回連続の印をご一緒に組ませていただいて、例えば、こういうZoomで繋がらないで、何時何分から一緒に神聖復活の印を組みましょうって約束して、遠く離れた…、例えば東京と九州みたいな離れたところにいる人たちが、Zoomとか使わずに時間を合わせてお祈りするっていうのも確かに、繋がり合うことになっているとは思うんですけれども、こうやってZoomを使って、お互いに顔を見ながら一緒に神聖復活の印を組める時間というのは、本当に深く交流し合っている得難い時間なのだなということを、しみじみと、まざまざと実感していました。
皆さんお一人お一人の神聖の響き、私の神聖の響き、ひとりひとりの神聖の響きが、私たちの心の奥の天と呼ばれる場所で一つに繋がって交流し合っている、一つの大きな光の玉のような形になって、お互いのいいものが混ざり合って、また私たちひとりひとりに返ってくるという交流が、今ここで実際に起こっているんだなって思いながら、印の動作をしていました。そういう意味で、私たちはいのちの繋がり合いというものを、実際に交流を通して経験しているんだなということを感じていました。
次回の勉強会は、6月の終わりもしくは7月の始め、7月の頭は大行事ですよね。だから、6月29日土曜日の午後の同じ時間にします。また後で、メールでお知らせしますので、それをご覧ください。高知の澤田さんのところ、たくさんの方が来てくださってありがとうございます。ありがとうございます。2時37分ですね。これで終わりにしたいと思います。たくさんの皆様のご参加、ありがとうございました。
以上