2024年9月7日(土)午後_勉強会
皆さま、こんにちは。9月7日、土曜日の勉強会を始めます。まだ入ってきますかね、大丈夫かな?一番初めに、みんなで一回だけ神聖復活の印を組みたいと思います。はい。今入られた方、これから神聖復活の印を一回みんなで組みます。それでは始めます。
<神聖復活の印を一回>
はい、ありがとうございました。
私たちは今、こうして肉体という衣をまとって生きています。この体は、いってみれば、ジャンパーやコート、ダウンジャケット、人によっては着ぐるみを着ているようなものです。私たちはこの上着、この体を、自分だと思っているからこそ、「あなたはあなた」「私は私」「あんたが悪い」「こっちは悪くない」といった分断された思考で生きています。
それで本日のテーマに繋がってくるんですけれども、そういった分断された思考での捉え方を、神聖意識の捉え方に生まれ変わらせるにはどうしたらよいか、ということです。この捉え方という言葉は、見方とか、想い方とか、認識とか、いろいろな言い方に変えることができると思うんですけど、意識の立ち位置という言い方もできると思います。
私たちがこうやって今、Zoomに出ているこの場所は、皆さん、おうちの中から参加されてると思うんですけど、地球の大地の上に建っている建物・おうちの中にいて、そこから今こうやって参加しています。それと同じように、心・想い・意識にも、どこに立っているという立ち位置があります。それは、肉体の眼では見えませんが、意識の足が地面についている立ち位置があるのです。
例えばさっき言った、「あなたはあなた」「私は私」という意識の立ち位置は、肉体界・幽界・霊界・神界という分け方で言いますと、霊体までのあり方です。神界に入ると、「あなたはあなた」「私は私」ではなくなります。あなたも私も同じ命だから、「私たち」という意識になります。
霊界の上の方へ行けば、だいぶそこに近づいているんですけど、それでもやはり分離した思考(思念)があります。また、霊界の真ん中から下の階層へ行きますと、もうはっきりと「あなたはあなた」「私は私」と分かれて見えて、自他を区別しています。
Zoomの画面を今、ギャラリービューにして見ていらっしゃる方は、今ここに出ている40人くらいのお姿が見えてると思うんですけれども、「私じゃない他の人」というふうに見えていると思います。
それは、肉の眼、肉眼で見ているからそういうふうに見えるんですけれど、でも今ここにいる43人の存在を、眼を閉じて観じてみますと(注意 ➡ 「感じる」ではない)、一つの大元の宇宙を作った大生命から分かれ現われた姿、元をたどれば一つの命が今ここに、40何人の人の姿になって現われています。
どうしても私たちは眼を開けて、肉眼で見ていますと、「自分ではない他人がいる」というふうに見てしまいます。「この体、この肉体が自分なんだ」というふうに見てしまうんですけど、2010年の富士聖地の行事で、私たちの上から二番目のチャクラが開かれました。そのとき、五井先生から「危険のない二番目のチャクラを開いた」というお話がありました。
違う言い方をしますと、眉間のここをこうやって触るとへこむ場所があるんですけど、ここが第三の眼です。第三の眼は、第二のチャクラと重なっています。私たちはこの眼が既に開いているんですね。「私は開いてない」と思っている方もいらっしゃるかもしれませんけど、開いているんです。
この眼が開くと何が変わるかというと、物事の本質がわかる。いわゆる審神者(さにわ)力が私たち自身の認識の中に備わるんですね。だから私たちは、気がつかないで、この二つの肉眼、プラス真ん中にある第三の眼を使って、本当は、三つの眼で世界を見ているのです。
この第三の眼は、例えば幽霊が見えるとか、死んだ人の姿、この世ではない世界の存在が見えるとか、そういう見え方をする眼じゃないんです。この眼は、意識の立ち位置を生命の元の世界に置いて、その場所から見える(世界を俯瞰する)眼なんです、ここは。
この第三の眼プラス肉眼、この三つの眼で見るから私たちは、多分皆さんもそうだと思うんですけど、知らないうちに物事の本質がわかる。
例えば、今政治の世界では、与党も野党も代表選挙というのをやっていて、多くの国民は冷めた目でそれを見ているんですけれども、「誰が一番神聖が開けているよね」というようなことは、もう皆さん、テレビなんかで政治のニュースを見ているだけでわかると思うんですね。
また例えば戦争をやっている国があります。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ、イスラエルはパレスチナだけじゃなくって、レバノンのヒズボラ、それを後ろでサポートしているイランとも対立していますけれど、どうして彼らが戦いを止めないのか、そういう愚かしいこと…、誰がどう考えてもお互いに殺し合っていいことなんてないのに…。
もうロシアとウクライナなんか3年目ですか。もう2年以上やっていますよね。私たちも祈りの会の中で、いつもロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナのお祈りをしていますけれども、一向にやめる気配がない。
「どうして?」っていうところを見ていくと、確か『老子講義』だったと思うんですけど『老子講義』の65ページ、第6講「上善は水の如し」のところに答えが書いてあります。ちょっと読ませていただきます。
平和な心が根底にあって、そこからすべての善徳が生れ出でるのであって、平和の心が根底にないと、一つの善徳を積んでも、どこかでその善徳を崩してしまう、不徳をしてしまうものなのです。
ですから人は何にも先んじて、平和な心を養わなければならないし、争う想いを無くしてしまわねばならないのです。
自分の行為が正しくて、相手の行為が悪いのだから、自分が怒るのは当然だというような場合いが随分ありますが、私のようにその人その人の過去世からの想念所業の判るものからみれば、その時には、確かにその人の方が正しく、相手方が百%悪いとしても、過去世からのお互いのやりとりを通算してみれば、正しいと思っている方にも、悪いところが沢山あったので、相手方がその人に悪く当ってくる理由も随分とあるわけなのです。
個人同志のやりとりも、国家や民族同志の争いなどでも、その場その時だけのものではなく、過去或いは過去世の歴史的な諸事情の下に、今日の争いも生れてくるのであって、現在正しいからといって、現在正しい方が全面的に正しく、現在悪い方が全面的に悪いとはいえないのです。
又、主義や主張にしても、その主義主張が表面的には国を汚し、人類を乱すように思われることでも、実は国や人類の業想念を綺麗にするための大掃除による、種々のほこりが立っている姿かも知れないのです。人類が神の子の真実の姿を現わすためには、どうしても、浄めが必要なので、人類の大浄化作用のために、現在は、各種の面妖な思想や、行動が起っているのであります。
そうした間違った思想や行動をみますと、正しい心の人々は、つい腹立たしくなるのでありましょうが、そこで腹を立てたり、争いの想いを起こしたりしたら、その人自身も、神のみ心から離れていることになります。
そこで私は、すべての想念を先ず、世界平和の祈りの中に入れて、そこから自分の想念行為を頂き直して、生活してゆきなさい、と人々にすすめているのであります。
大事な大事な平和の心を養う最大の方法は、やはり世界平和の祈りを根底にして生きる生活方法よりないのです。老子の一見むずかしそうな教えも、平和の祈りの中から行じる習慣をつけますと、意外な程易しく実行できるようになるのです。
はい、読むのはここまでにします。この二つの肉の眼、肉眼だけで世界を見ていると、「自分が正しい」「相手が間違っている」「あの人が正しい」「その人は間違っている」というふうに見えてしまうんですけれど、そこにこの第三の眼を加えて三つの眼で見ますと、今書いてあったような『過去世からの通算した想念所業』が見えてくるんです。
それはもう、一瞬にしてわかる。考えるんじゃない。もう見た瞬間にわかる。肉体の自分の頭じゃないんです、ここは。ここ(第三の眼)は神聖と直結している眼なんです。
具体的には、(第三の眼の奥にある)間脳なんですけど、左脳と右脳の間に間脳という狭い場所がありまして、そこに松果体とか海馬とか、人間の生命の根源に繋がる記憶を持つ部分があります。あくまで物理的に見た話ですけれど…。
あんまりこの話を言うと、これにとらわれちゃう人がいるんで、例えば土曜日の夜の祈りの会でも、「眼の奥に息を入れることを意識してください」というだけの言い方をするんですけど、本当は松果体を活性化させるとか、そういう裏の意味合いがあるんですね。
神聖復活の印のマニュアルの中にも、眼の奥まで息を吸い切る、入れ込むと書いてあります。でも、間脳がどうだとか松果体や海馬がどうだとか、そんなことはまったくどこにも書いていません。それは、私の推測ですけど、きっとそういう言葉を出すと、それに引っかかる、それにとらわれる人が出てくるから、そういう具体的な単語を出さないで、”眼の奥に息を入れ込んでください”というお話になってるんじゃないかしら、と私は思っております。
何ヶ月か前の白光誌でも、「そんなに丹田、丹田と思わなくていい」と、臍下丹田にとらわれるなというお話が書かれていたと思います。神聖復活の印のマニュアルでも、印を組むときにお尻を締めて、お腹を引っ込めて、その状態を保って息を吸うときには、眼の奥まで入れるように吸い込んで、吐き切ってと書いてあります。
また、お腹の前でこの形を神聖復活の印の中で作っています。(指先を付けて輪をつくる印の形)これは、説明を受けられた方もいらっしゃるかもしれませんけど、一番最初にこうやって(斜め前方上に)伸ばして受け取った宇宙神の光、それをお腹の前まで持ってきて、自分の肉体エネルギーとミックスしているというサインなんです。
そのときに、丹田とかお腹のチャクラとかも関わっているんですけど、別に丹田が今どうなっているとかそんなことは考えなくても自然と一番いい働きが起こっているんだから大丈夫ですよ、という話だったと思うんです。
何ヶ月か前の白光誌のお話もそれと同じで、今、間脳とか松果体とか言いましたけど、もう聞き流していただいても構わないです。あんまり「間脳、間脳」とか「松果体、松果体」とか思うと、想いが横道にそれてしまうんですね。
何が一番大事なことなのかというところから外れてしまうんで、ここ(眉間の上の第三の眼)が命の大元にまで繋がる記憶に関係している、ということだけ覚えていただければいいと思うんです。
脳の部分を活性化するには、もう単純に神聖復活の印のとき、もしくは印を組んでいなくても、印の呼吸をするそのときに、しっかりと息を吐き切るとともに、眼の奥まで吸い込み、息を入れ込み、届かせることが大切です。
お腹を引っ込め、お尻を閉じて、息を吸い切る。そのときに、胸の縦の骨、これを胸骨というんですけど、このあたりから眼のあたり、この第三の眼ぐらいまでの高さを肺の範囲とイメージする。コップに注いだ水が溜まってゆくイメージで、吸った空気がどんどんどんどん溜まってゆくと、もうこの眼のあたりしか残っていないんで、そのときにスーッと吸い切ると、眼の奥に息が入り込むんです。
ここで、実際に印を組んで、印を組みながら、ここへスッと入れ込む感覚を確認してみたいと思います。
そのときに、印のマニュアルには書いていない話ですけれども、自分のお部屋の床を地球の大地だと思って、左右の5本の足指で大地をしっかりと掴むんです。肩幅ぐらい、もしくは肩幅に近いぐらい足を広げて、そのときに、もしも膝がピンと張っているなら、ほんのちょっとゆるめてあげる。膝の関節をピンと張らず、ほんのちょっとゆるめてあげると、お尻を締めてお腹を引っ込めたときの姿勢が安定します。
そうしますともう今、私たちはこうやって立っていて、地球と一つなんです。大地と一つになっているんです。この体の私たちを今、後ろから人が来て、ドンって押されても、私たちビクともしないんです、この体勢で立っている限り…。
なぜなら、大地と一つになっている。足の裏に根が生えて、大地に深く入っているような状態になっているからです。
この状態でお腹をぐっと引っ込めると、内臓が引き上がるんですね。内臓が引き上がると、それに押されて横隔膜がちょっと上がるんです、上に。横隔膜に肺が押されて、ちょっと上に上がった状態、それを維持しながら、胸骨の一番下から第三の眼までの範囲が肺だとイメージして、呼吸をしながら印の動作を行ないます。一回だけです。
<神聖復活の印を一回>
はい。ありがとうございます。この状態で印を組むときに、肉体側の私たちが考えるべきことは、息を眼の奥まで入り込むように吸い切るということだけです。それを注意してやって習慣になれば、そんなことを思わないで、自然とそうなった状態になります。
あとは守護霊さまが、全部いいように運んでくださいます。神聖の視座というのも、言葉を変えてみれば、守護霊さまと一体になった意識、一つになった意識、守護霊さまの意識がある場所に、私たちの意識が立っているという状態です。
それが肉体の感覚、五感でわからなくても、結構たくさんの方、今ここに出ていらっしゃる方も、すでにそういう状態で生きてらっしゃるんじゃないかしらと、私は思っています。
そういう状態になると、自然とこの第三の眼も日常生活の中で活用しているし、私たちが「我即神也」と思うときには、守護霊と一つになった意識で言っている。これは本当に、心の底から「私は神そのものだ」と、「本当にそれが当たり前だ、当然だ」という意識でもって、言葉に出している状態です。
守護霊さまと、一つになるというのは、私たち霊的に守護霊さまの姿が見えません。一般のほとんどの人はそうだと思います。そんななかで人に、「あなたは守護霊さまと一つよ」って言われても、「本当に一つなのかな」「本当に一体になってるのかな」と思われるのが、普通の人の感覚だと思うんです。その一体になった力を本当にこの肉体の心と体に表わして生きるためには、「一つになっているんだ、自分は守護霊と一つなんだ」という意識を、もう確実なものにしてゆくしかないんだと思うんです。
それで、今ここにいらっしゃる方でも、長い方はもう40年も50年も60年も祈っている方がいらっしゃると思います。「私は守護霊と一体なんだ」「神の分霊なんだ」とやりながら、何十年も祈ってこられた方は、自然と人間は神の分身だと云うことが身に付いてきていらっしゃると思うんです。
はい、ごめんなさい。そうですね、ちょっと時間が45分をもう回ってますんで、ちょっと休憩を挟みましょう。10分休憩を入れて、55分から始めたい思います。画面は最初の状態にしておきますので気兼ねなく休憩してください。はい、それでは画面切り替えます。
<10分間の休憩時間>
それでは、55分になりましたので、画面共有をして始めます。
これは、2010年、14年前のトピックです。さっきお話した「危険のない額のチャクラ」が開かれたというのは、ここの部分ですね。2010年の1月の大行事のときでした。宇宙神・五井先生・大光明霊団が三位一体となって、私たち1人1人の守護霊守護神を通して眉間のチャクラを開いた、ということがありました。
この14年前のトピックを振り返ってみたいんですけど、2月の行事では、「言葉を発する前に一瞬、我即神也の私が人類即神也の相手に語るということを意識して言葉を発する」という一年限定のご神事が発表されました。あともう一つは、「宣言を伴った呼吸法による唱名」
3月の行事では、「人間の作り上げてきた悪想念行為等で地球が汚れきってしまい、地球大霊王さまが異常気象や地震などで浄化しているが、世界各国の平和の祈りが人類の意識を変え、地球そのものを救い、印と祈りと呼吸法により、地球は癒されているため、地球大霊王さまが皆さま方に対して、ひれ伏して感謝されている」というお話がありました。
4月には、「過去に意識を向けない。出たものをつかまない。自分の意識が自分の人生を作っている。神聖に自分の意識を変えれば、”こういう人だ”と決めつけている相手が変わる。変えるのではなく自然に変わる」という話がありました。
5月の大行事はSOPPですけれども、「自分の宗教とよその宗教、リーダーと信者という差別や境界線を越えた一体感の世界を作り出し、究極の一体感を味わった」ということでした。
6月の行事では、「人が自分を見て”吾は神を見たる”を常に意識する。批判・非難しない。これを繰り返す」というお話がありました。
7月の大行事は、特に細かく書いていませんが、「天と地、神々と我々の共同創造が成功した」ということでした。
9月の大行事は、当時は『地球黎明祭』という名前でした。地球大霊王さまの言葉をいただいてます。「あなたたちがいる限り、地球の破滅はない。地震も洪水も天変地異もすべて小さく収まる。あなたたちの存在が、21世紀の意識の変革を作り上げていく。地球の壊滅を防いでいるのはあなた方の存在だ」というお言葉をいただいています。
10月の行事では、オーラのお話がありました。「オーラが輝いて、肉体が見えなくなるようなときが来る。オーラの光が自分を取りまけば悪い人に出会うことがなくなる。最終的な目的は、肉体を持ったままで神そのものを表すことだ」ということでした。
11月の大行事は五井先生感謝祭ですが、前の月に女性リーダーサミットというのがあってサークルアワード賞という賞を受賞されたというお話があり、五井平和財団・白光真宏会・ソサエティー(今はMPPOEI)は世界で知られている。日本で知られてなくても問題はない。いずれ逆輸入されるときが来る」というお話がありました。
12月の行事では、神人が1万人を超え臨界点に達した。富士聖地の四大行事は世界を変える行事である。4次元の世界であるここ(富士聖地)に来て光を受け取った意識集合体が世界を現実に変えていくことになる」というお話がありました。
なぜこんなふうに14年前のトピックをまとめているかといいますと、7月大行事のときに、由佳先生の方から、今年2024年は神聖復活の印が出てから7年後、28年前に人類即神也の宣言文と印が降りて、35年前に「この度五井先生率いるグループに、世界を救う大いなる権限を委ねることに決定した」というお話が出た年だというお話があり、「14年前と21年前はどうだったろう」と思い、調べたんです。それでここには出ていませんけれど、21年前は、とくに大きなトピックはありませんでした。
今日のテーマに戻りますけど、「捉え方を生まれ変わらせるために」ということで、最初に話した呼吸法をやるときに、眼の奥まで息を入れ込むことで、第三の眼が活性化して、物事の見え方が自然と神聖の視座に立った観え方になるというのが一つ。これは自然と変わるんです。変えようとして変わるもんじゃないんです。いつの間にか変わっていた。気がついたら変わっていたという変わり方をします。
もう一つは、「お祈りをしてます」「印を組んでます」ということとは別な動きとして、自分の心の中、意識の動きとして、自らを磨き高め上げる工夫…、例えば、道を歩きながら、「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就、すべては完璧、欠けたるものなし、大成就、」と思いながら、周りに人がいなければ声に出してもいいと思うんですけれども、それをやり続けるとか、「我即神也、我即神也、我即神也、我即神也、我即神也」と7の倍数で唱え続けるとか、ひたすら世界平和の祈りをし続けるとか、統一CDをかけて統一行をするとか、明るい言葉、光の言葉、真理の言葉、神聖の言葉を意識して口に出すように気をつけて過ごすとか、皆さんそれぞれに工夫されてやってらっしゃることがあると思うんですが、この2本立てです。
心の中でやっている自分を育て、磨き高め上げることと、呼吸法ですね。私は、いずれ呼吸法なんてメソッド扱いではなく、普通の呼吸で呼吸法をやっているのと同じ効果が出る時代が来ると思っています。
そうした世界にするために、私たちは今、時間があれば呼吸法をして、この世の波動を天に還元して光に変換して受け取っている。自分の想いの癖で掴んでいる想い、「あの人はどうだ、この人はどうだ」「あの国はどうだ、その国はどうだ」といろいろ思っている認識を、吸う息で天に還して、光に変えてもらって、吐く息、息吹で神聖の認識をこの世に広めてゆく。
私たちの呼吸、私たちの息吹で、世の中を浄化している。もちろん一番浄化されるのは自分なんですけれども、自分が変わらないと世界が変わらないんで、一番変えるべきは、私たち自身の認識、捉え方を生まれ変わらせるということです。
神聖の捉え方に立ってこの世界を見るということが一番大切なことだと思うんですけれども、そうやってやってゆけば、2010年の4月行事のときのお話で、「自分の意識を変えればこういう人だと決め付けている相手が変わる。変えるのではなく自然に変わるんだ」というお話がありましたけれども、私はこれを自分で実際に体験しています。
だからここに書いていることは、単なる理想論じゃなくて、本当にそうなんだっていうことを断言することができます。だから神聖の視座に立って物を観るという習慣をつけるということが一番大事なことなんではないかなと思っております。
どうしても「肉体が自分なんだ」という認識に立って仕事をしたり、家庭生活があったりすると、どうしても自分と離れた他人という見方、考え方、感じ方、捉え方になってしまって、擦れ合ったり、ぶつかり合ったりということが起こる。
そういうことが起こることがいい悪いではなく、起こったときに心が乱れる、感情がざわつくというところに、消えてゆく姿の見るべき本質があります。ざわつくぐらいで済めばいいですけど、ときには感情の嵐が起こるという状態にもなったりします。
それはやっぱり、物事の捉え方を神聖の立ち位置から観るという捉え方に生まれ変わらせない限りは、いつまでも同じことを繰り返すんだろうなと思います。
私、こういう話をしているから、自分が完璧だとは申しません。やっぱり一時の感情に流されることがあります。「やっちゃった」ってすぐに反省するんですけど、そうですね、すぐに反省できるようになっただけ成長したんだと思います。10年以上前はすぐに反省できなかったんです。もう感情の塊になっていたんですね、自分が。だから許せないものは許せない。「なんで誰々は」「なんであの人は」って不平・不満・不足、自分勝手な想念を垂れ流しにして生きていました。
その片方で世界平和の祈りをしていたんで、「本当に二重人格みたいな状態だったな」って自分で振り返って思ったんですけど、今でも出てくるということは、やっぱり心の壁の中に入り込んでなかなか表面に出てこない想いの癖を、私たちはみんな1人1人が抱いて生きているんだと思います。
何が心に襞に潜んでいるかは、肉体の頭でどんなにそれを知ろうとしても知ることができません。知っているのは守護霊・守護神さまだけです。私たち1人1人の守護霊さまが一番ご存知なんですね。だから私たちの心の状態を観て、「この子の心の襞のここにまだこういう想いの癖がこびり付いている」「こういう思い込みがあるね」「こういうこだわりがあるね」というときに、いっぺんに剥がして運命として表わしたら、私たちが立ち上がれなくなってしまうから、守護霊さまは愛の神さまなので、そういう無茶ぶりを肉体人間にしないんですね。
私たちの精神状態を見ながら、「今このタイミングでこれを表わして消そう」「よし、乗り越えたね」「じゃあ次はここにこびりついた思い込み・執着を運命に表わして消そう」というふうに、少しずつ少しずつ、分散して表わして消してくださっている状態なんです。
それが私たちの日常生活の中で、実際に人と接して起こった出来事になったり、自分1人のときに心の中で起こった出来事になったりする。もっと世の中全体で何かが起こって、それに対して自分が何かを思ったというその感情に表わしたり、何らかの形で過去世から現在に至る私たちの誤てる想念を浄めていただけているんだと思います。
はい、ということで、もう2時20分ぐらいになりますね。神聖復活の印を14回連続で組ませていただきたいと思います。そのときには、土曜日の夜のときにも最近お話してるんですけれど、本日お話しました、息を吸うときには眼の奥にまで吸い切り、息を届かせるということを意識して行ないたいと思います。
宣言をしましょう。そうですね。簡単な言葉です。2回繰り返します。「私たちみんなの神聖復活、大成就」です。「私たちみんなの神聖復活、大成就」、これを2回繰り返します。宣言を始めます。はい。
<神聖復活の印を14回連続>
ありがとうございました。本日もお忙しい中、お時間を割いてご参加くださいましてありがとうございます。
今日のお話をまとめますと、タイトル、テーマが「捉え方を生まれ変わらせるため」にということで、そのために効果的なこととして私は考えていることが、一つは神聖復活の印のときに、眼の奥に息を入れ込むという、神聖復活の印のときの呼吸法と、私たちの普段の日常生活の中で、「すべては完璧、欠けたるものなし、大成就」や「我即神也」を唱えつづけたり、『人間と真実の生き方』の冒頭の部分を唱えつづけたり、我即神也の宣言文の冒頭を唱えつづけたり、あとは人類即神也の宣言の冒頭を唱えつづけたりする。間髪入れずにそれらを繰り返し、そのことだけで意識を満たしつづける練習をする。
一回、5分か10分を一日何回かに分けてやるだけで、全然意識が変わります。そんなしょっちゅうしょっちゅうできることじゃないんですけど、生活の中で工夫して、例えば買い物に行くスーパーの行き帰りだけやろうとか、そういうことでもいいと思うんで、やられると本当に知らない間に神聖の認識を持った自分にいつの間にか変わっていたなというふうになってきますんで、やってみてください。
私は、これから半年、1年の間に、みんなが神我一体になると思っているんです。みんなが悟りを開く。といっても、そんな最上級の神我一体というわけじゃなくて、神我一体の初級編というか、神界の入口を通ったすぐのところまで、もうみんなが行けると思っています。
もう既に行ってらっしゃる方も、今この中にいらっしゃいますよね。だから私、そういう方は、ご自分が勉強会を主催されてもいいんじゃないかしらって思うんですけれども、本当にみんな1人1人が神我一体になって、「あなた方は五井昌久の化身である」と言われたそのお言葉に恥じない私たちになりたいな、誰が見ても「あの人は神みたいだね」と思われるような私達に成りたいなと思っております。
他人から思われる以前に、自分が自分をそう見なかったら、そういうふうには変わらないので、そういう意味で、私たち自身の自己認識を磨き高め上げてゆきたいと思います。はい2時40分を回ってしまいました。ありがとうございます。これで終わりにしたいと思います。皆さまのマイクをオンにします。
以上
【関連する記事】
[神聖で繋がり合う人々:00087] 【眼の奥に息を入れ込むことについて】
2024/09/12(木)
勉強会の皆さまへ
眼の奥に息を入れ込むことについて
昨日、先日の勉強会での『眼の奥に息を入れ込むイメージで息を吸い切るお話』に関連して、「それは、神聖復活の印のときの"最初の吸う息"のときだけ、眼の奥に入れ込むイメージで行なえばいいのですか?それとも、"すべての吸う息"でやるのですか?」とある方から質問があり、「すべての吸う息の時に行ないます」と答えるやり取りがありました。
『神聖復活の印』の動作を分解しますと、吸う息は6回、吐く息は6回になります。その"6回の吸う息"すべてを眼の奥に入れ込むイメージで呼吸をするということです。
それを伝えてすぐに、「一呼吸5秒以上で呼吸をするときには、眼の奥に入れ込むことが出来るけれど、それより短い間隔で呼吸をするときは、眼の奥にまで息を届かせることが難しい。どうすればよいか?」との返答がありました。
もしかしたらこの話への回答は、他の方の参考になるかもしれないと思いましたので、ここに共有いたします。
私の経験を一言で申せば、4秒間隔で「吸って・吐いて」を繰り返すときは、強い勢いで吸い込めば、眼の奥まで届かせることが出来ます。(5秒間隔より長く呼吸をするときは、余裕をもって目の奥に届かせることが出来ます)
『動画による祈りの会』で時々あることですが、3秒間隔で印を組むときは、肺をフル活用して眼の奥まで息を入れ込むことは難しくなります。なぜかというと、かなり強く吸い込んだり吐き切ったりしないと、吸った息が眼の奥にまで届かないからです。(息を吸ったり吐いたりする強さが弱いと、目の奥に届かせる時間が足りないため)
この『眼の奥まで息を入れ込む(届かせる)呼吸』は、コップに水を注ぐことをイメージするとわかりやすいのではないかと思います。まず「肺がコップ」で、「水が酸素」だとします。
"普通の呼吸"を「コップと水」で例えますと、溢れる寸前の目一杯まで注ぐと、それ以上は水が入らない状態です。
それに対して、"目の奥にまで息を入れ込む呼吸"は、溢れる寸前の目一杯のところまで水を注いだところで、さらにもう一息吸い込むことで、コップから水を溢れさせるイメージです。
それを可能にするのが、お尻を引き締め、お腹を引っ込めることで内臓を引き上げ、それにより横隔膜が肺を押し上げた状態を保ちながら、鼻腔の奥を鳴らしながら行なうこの"超特別な呼吸法です。
この『バイブレーションの呼吸法』は、"イメージの力を使ってこの世の枠組み(常識)を超える超常識の呼吸法"であるといえます。
私たち人類は、誰もが意識の力で運命を創造する力を持っています。ひとりひとりが"思ったとおりの自分を生きている"ともいえます。
これまでの私たちは、この世の法則に縛られ、その枠の内側でしか自分を活かせませんでした。でもこれからは違います。
地球の次元上昇を牽引している私たちは、私たち自身がまず物理常識の範疇から抜け出した生き方をすることで、神聖に紐付いた意識力を発現して、生命が持つ無限の力を発揮して生きることが出来ます。
私はこのバイブレーションの呼吸法を、そうした超常識の生き方の土台・下地を創る方法だと理解しています。
この呼吸法により、私たちに何が起こるのか。それは「論より証拠」で、理屈で考える前にやりつづけることです。やりつづけさえすれば、心と体に実感・体感する形で判ってまいります。
生命に内在する無限の力は、宇宙大生命からすべての人類に平等に与えられています。それを生かすも生かさないも私たち次第であります。
以上