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 [神聖で繋がり合う人々: 00003] 9月10日(日)朝 『神聖を呼び覚ます日』 始まりのお話

このメールで繋がる皆さまへ

 

明日の朝の始まりのお話を送ります。

このプログラムは表でリーダーを担当するのは私ではありませんが、プログラムは私のほうで作っておりますので、土曜日夜のプログラムと併せてお送りいたします。

土曜夜は縦の繋がり、日曜朝はyokoへの働きかけとご理解ください。

 

また場合によっては、部分的に違う言い方をすることがあるかも知れませんがご承知おきください

 

ZoomのURL
https://us02web.zoom.us/j/6980729270?pwd=nW9HgFrjw71kpe38gTNS-rdtnvZ3Rw.1

 

無限なる感謝
斉藤雅晴

 

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《MC: 古賀さん》

皆さま、おはようございます。朝のZoom祈りの会を始めます。

本日から日曜日の朝は、中澤さんがお戻りになるまでは『神聖を呼び覚ます日』と題しまして、日本国内と世界各地の諸問題にスポットをあて、神聖を忘れ果てた人類の想念・言葉・行為がつくり出した様々な課題や困難のお浄めをとおして、徹頭徹尾、人類の神聖を認め、呼び覚ますお祈りをしてまいりますので、よろしくお願いいたします。

この『神聖を呼び覚ます日』には、私たちが何十年もの間、祈り続けてきた世界平和の祈りの最初の一説、「世界人類が平和でありますように」という日本語の本来の意味を、毎回かみ締めてまいりたいと思います。

それはどのようなことかと言いますと、その答えは、昭和三十年代の前半に、五井先生が次のようにご説明くださっています。

世界人類が平和でありますようにというのは、宇宙を創造した大元の神さまのお気持ちである世界人類よ、平和であれを、願いごとのような形にして、誰もが祈りやすい言葉にしたものなんですよ。」

また次のようにもおっしゃっています。「世界人類という言葉の中に、すべての自然と生きとし生けるものへの祈りが含まれているのです。」

世界人類という言葉の中に、すべての自然や生きとし生けるものへの祈りが含まれている」という言葉をかみ締めますと、世界人類が平和にならなければ地球は平和にならないということがわかります。

また、人間生命の表面的な表われである『意識』を元へ辿ってゆくと、自然と生物をも創造した大生命そのもののお心に辿り着きます。そのことから、私たち自身が観られるものであると同時に、観るものであるということがわかります。

五井先生は、メールで紹介しました『人間の責任』という随筆の中で、「絶対者神は、観る力となって人間の内部に存在し、自己の創造した自然を見つめている」、また、「人間のためにすべてが存在しているのだ」とおっしゃって、人間にはすべてを調和せしめる責任があると明言されています。

そのことを深く掘り下げて見つめますと、私たちが色々なもの現象他人の言動行為などを見て、何を思い、語り、行動するかによって、世界が創られているということがわかります。

そこまで考えますと、人類に先駆けて神聖復活を果たしつつある私たちが、すべての本質である神聖を認めることがどれほど大切なことかがわかってまいります。

そこで本日からの『神聖を呼び覚ます日』には、人類がつくり出した不調和な現象や、真理を忘れ果てた想念・言動・行為の奥に、ことごとく神聖の光を認めて、すべての存在の天命が完うされるようお祈りすると共に、宇宙を創造したいのちの大元の理念をご一緒に身に体しまして、人類に内在する神聖を呼び覚ましてまいりたいと思います。

それでは時間になりましたので、三分半の統一CDを使って世界平和の祈りを日本語と英語で行ないます。そのときには、「見られるもの、被造物の視点」ではなく、「見るもの、創造者の視点」に意識を合わせてお祈りください。私が「はい、ありがとうございます」と申し上げましたら, 目を開けてください。それでは始めます。

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※参考資料

『人間の責任』

五井昌久

暁け方まで降っていた雨が止んで、新緑に残された幾粒もの水滴が、五月の陽光と快く調和し、銀色に光り、金色に輝き紫色の光を放つ。

天界の美の片鱗(へんりん)が庭先にうつし出されている朝のひととき、私の心は天地の恩寵(おんちょう)を感じつつ和やかに佇む。

こうした小さな水滴の中にさえひそんでいる自然の美しさ、そしてそれを感じる人間の美意識。

天と地と陽光(ひかり)と風と、雨と草木(くさき)と人間と、このようなすべての存在の中で、人間のみは美を感じ、醜(しゅう)を感ずる側にあり、その他のすべては、人間に美醜を感じさせる側にある。

いかに自然が美しくあろうとも、観る側の人間が存在しなければその美は成り立たない。

自然は観られるそのままに存在し、人間は観るも観ざるも己れの自由に任されたる存在として生きている。

そして人間同士お互いの存在を観、聴き、その美醜、善悪を選択する自由をもっている。

この宇宙世界を創造した絶対者は、果たして重点を観る側(人間)と、観られる側(自然)とのどちらに置いたのであろうか。

私は観る側(人間)に重点をかれたものと考える。

何故なれば、観るということは、観る力が中に存在しなければ、観るという能力は生まれてこない。

観るということは意志と感覚との共同作業である。

観られる側にはそれがない。

絶対者(神)は観る力となって人間の内部に存在し、自己の創造した自然をみつめている。

そして、観られる側(自然)に働きかけている創造活動のひびきと、人間の内部における観る力、いのちのひびきとの調和によって生まれる美観を愉しんでいるものと思われる。

この考えをもう一歩進めていくと、人間のためにすべての自然が存在するということになってくる。

それほど重大な人間という存在が、真実の美意識を失いかけている。

自然の中から美を見失い、最も共通なひびきをもっている人間お互い同士の間から神の理念(おもい)とは全く反対な憎しみと闘争という、生命(いのち)を削る醜悪なる事態を現出させつづけてきた。

そして、それが恐怖を生み、悲しみを生み、今将(まさ)に自然そのものを崩壊させようとしている。

私たちはここで改めて神の理念を思い起こさなければならない。

美であり、大調和である神の大生命的存在を、そして大生命の分霊(わけみたま)である自分たちを、生命は調和の中に生き、不調和の中では死ぬのである。

己れの生命を生かすものは誰か、己れの生命を損なうものは誰か―

私は自己の生命を生かしきる人の一人でも多からんことを祈る者である。